column
未来をなぞる写真家・畠山直哉
この映画の中でしか見られない畠山直哉の写真がある。
畠山が写真に向かっている姿、過程、考え続けている思考、この映画の中でしか見られないものがたくさんある。
デビュー前から畠山直哉の写真を見ていて、時々、話もして、何回か自分のトークにも来てもらっていた。畠山直哉の写真をある程度、把握できると思っていた。
でも映画の中に出てくる畠山直哉の写真は、僕にはすぐに把握できないものだった。
写真について言えば、例えば独特の構図、対象の見方、距離……、そうしたことは、作家が作家になったときから大きくは変わらない。それがその作家の作家らしさということだから。写真の対象への距離がきちんと一定していること、向かい方ということも含めてだけど。その距離感がその作家の個性である、なんて言い方もある。
だから写真美術館で「Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ」を見たときに感じた、写真の変化、そして畠山直哉と交わした言葉を聞けば、変化するだろうけど、ゆったりと、かみしめるようなものなんだろうな、と、思った。
写真がもってる枠組み、特にそれが美術館の中で展開されるようになった後の写真の枠組み、それを含みながら作家がそこで確立するもの、それが写真だった。(もちろん写真のすべがそうではない。写真は多様に存在する)そんな枠組みを含めて、あるいは、それを利用して作品と作家を見ていたわけだけれど、そんな見方を含めて………写真というもの……そういった写真にまつわるいろいろが、畠山の中で崩壊したんだ。そして彷徨しているんだ。変化は、根底を揺さぶるような激しいものだった。それが映画の中に写っている。
震災の後、畠山直哉と、一度、話をしている。震災の後、陸前高田の刻々変わる風景、そして何もなくなった。縄文時代のようだよ。彼はそう言った。それが進化するのに、元にもどるのに果てしない時間がかかる。写真の歴史はたかだか200年、何もなくなった故郷、陸前高田で自分は、写真で何ができるのか。とも。
畠山直哉が向きあっている陸前高田は、ゆっくりと考える時間を畠山に許してはくれなかった。更地のようになったところに、土が盛られ、山が削られ、そしてそれを移動するための巨大な橋が造られたり……。畠山の思考の変化は、変化という言葉では生易しく、動乱、迷走、彷徨、そんな言葉が必要なくらい揺らぎ、虚ろい、苦悩していく。
向こうから来た圧倒的なものに向かい続ける畠山直哉。自然の災害、その跡を処理する政治、起重機、ダンプ…故郷は激変していく。畠山は、それを受けとめきれない、そう誰も受けとめきれないのだが、畠山は写真と写真をする思考で、それに向かいあう。それの不可能性を受けて心にとめている。
このドキュメント映画にはそういうことも写っている。
ドキュメント作家のには申し訳ないが、この映像は畠山直哉の写真であり思考であり、そして苦悩の変化である。畠山の行為をじゃませず、それを丸々写している。カメラの前で畠山直哉は苛立っていない。(取材しに来た海外のジャーナリストに彼は密かに苛立っている。)写っているものを邪魔しないドキュメント作家というのもいていい、あってもいい。演出だって主張する演出と、手を見せない演出がある。
この映画のトーンが何かに似ていると思ったのは、映画館を出た時だった。畠山直哉は、大学を出てすぐに「ボイス・イン・ジャパン」というドキュメント映像の編集をしている。撮影クルーがそれぞれに撮ってきた、かなりの量の素材映像を、一時間にまとめる仕事をした。若かった。20代の前半だろうか。ボイスがある種の熱病的なブームの中で、迎えられた中で、畠山直哉の編集の手だけが静謐だった。その静謐さを思いだした。騒乱の中で彼の写真は静かだ。その静けさは、美のように観客には写るのだろう。
畠山直哉の写真は、この2年の中で、畠山直哉独特の構図や視線を取り戻しつつある、ように見かけは見える。それはかなりの驚きだった。
ロマンティックなたとえ話にすれば、写真の枠組みとか写真を写真足らしめているものを根こそぎ流されて、写真の縄文時代に戻って、それがまた次第に現在の畠山の思考を反映する写真として形成されていく。その過程が、このドキュメント映画に写されているということになる。
しかしことはそんなに単純ではない。今、見れば、震災の直後に撮られた写真にも、震災以前の畠山直哉の写真が生きていて、しかし、それは2年位前に見たときにはそうは見えなかった。ブラストのような圧倒的な写真群を頭に記憶している自分には、等身大の、視線がぐっと低くなった別の写真のように見えた。しかし震災後の写真の量が増え、写真集が出版され、ドキュメント映画が公開されると、劇的に変化しているものの中で(風景、畠山の思考)写真はその劇性を反映していないように見える。(それが畠山直哉の写真なのだ)写真は化学だから、心が写らないものだから。
畠山直哉が映画の中でも言っているように、震災前にスナップのように撮っていた故郷の写真は、今、まったく意味が変わってしまったと。写真は、見る方によっても、提示によっても、文脈によっても変化する。陸前高田が変われば、畠山直哉の写真も考えも変わる。その変化の中で、見る方の変化もある。
この写真はこういうものだ、という安定した見方はもうない。表現している内容を固定して記述することができた幸せな時代は終焉している。おそらく。対象と表現者と受け手と、そのどれもが浮浪している。変化している。定まった形式をもてなくなったのだ。「うつろい」がその三者に纏わりつく。暗鬱をもって。
そんなことをこのドキュメンタリー映画は映しだしている。
update2015/08/24