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助六由縁江戸櫻 歌舞伎座最終公演

三階席で見物。歌舞伎座には独特の匂いがあって、そこに包まれると否応無しに歌舞伎の世界に入ってしまう。

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芝田さんが渾身の附け。
声にならない声を出してアドレナリン全開。最期はどうしても自分なんだろうなぁ。

俳優祭のように豪華な面子。
ラストだからお祭りでまさに俳優祭なんだろうけど、歌舞伎と言えども演劇で
4番打者ばかり集めたらバランスが悪くて芝居にはならない。

菊五郎の白酒売新兵衛に期待していたのだが、やっぱり上品な新兵衛。もう少し崩してもと思うけど
この役はこれが良いところかもしれない。

通人の勘三郎、相変わらずのやりまくりだけれど
松助さんの飄々としたとぼけぶりがちょっと懐かしい。
まぁ、ほんとに4番ばかりの助六だから、演技はそれぞれの役者の人ということでおさめてもらうこととして
三年の劇場のブランクは歌舞伎に何をもたらし何を失わせるのか。
興味深い。

日本の演劇は座制度によって成立している。
劇団の名前にも座がつくものが多い。
アングラというのもテントという座、劇場を特色としてきている。
小劇場という言い方もあった。まさに小劇場の演劇がそこで展開した。
自分たち独特の劇場を主張できたとき日本では、演劇は特色を持てる。
歌舞伎も歌舞伎座あっての歌舞伎。
歌舞伎座とともに引退する裏方さんや関係者も多いだろう。
どうなるか歌舞伎、どうなるか演劇。

update2010/04/23

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あんたと呼ぶ声は

師走の京都

四条河原町で「あんた」と呼び止める声がする。
もうだいぶになるが、夏の暑い銀座で
そう呼び止められたのは、『歌舞伎はともだち』を編集していた頃
中村歌女之丞にそう声かけられた。
素通りはないでしょう。

時を越えた再現。そのまま南座、顔見世興行に。
ちなみに今回は吉弥も一緒にいた。

夜の部、土蜘蛛と助六。
助六は仁左衛門、玉三郎なので文句なし。

土蜘蛛の胡蝶に最近、お目当ての菊之助が演じている。
いやぁ、踊りが良くて……。土蜘蛛が踊りの集成でできているのを改めて意識してしまった。
あとから出てくる團蔵や松緑が若旦那に負けちゃぁいかんと
丁寧に踊るものだから全体がしっかりとして、良い良い。
菊五郎の土蜘蛛もなかなか。身体が重そうなのは京都だからかな……。

夜、竹茂でみなで並んで会食。
歌女之丞、吉弥。
三十五年は一昔。夢のようだ。


update2009/12/17

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寺山修司 生誕

電車を降りようとしたら

ふと目に入ったのが扉の上を流れる広告に
寺山修司の作品やステージが写し出されている。

電車の中に寺山修司!
その割りには寺山修司のしたことは忘れられているけれど…。
ちょうど下北沢・スズナリの『田園に死す』を見に行く途中だったから。
寺山修司の亡くなった日は覚えているが
誕生日は忘れていた。
1935年12月10日 。

【脚色・構成・演出】 天野天街、【音楽】J・A・シィザー【芸術監督】流山児祥【宣伝美術/絵】 花輪和一

寺山修司そのものの現代的解釈をした天野天街の力いっぱいの演出。
うーん。最近、演劇は良いかも…。

update2009/12/10

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4.48サイコシス 飴屋法水・演出


世紀末感をあおったり
廃虚を表現したり


80年代からずっとやってきた。
僕もその中にいただろう。

それは本当の崩壊や廃虚を思っていたのではなく
ファッションだったのだ。
破壊するキッズ。
『アキラ』

疾走して、破壊する。
少年たちの特権だ。

その描かれたような予感されたような
終わった世界、それは描かれた虚構の世界だったのに
その時代に生まれた人たちは
イメージを現実に生きてきた。
現実がイメージを取り込んだのか。そこは分らない。

そんな世代の人だろう
サラ・ケラインの書いた詩のような戯曲『4.48サイコシス』

世代の違いとして受け止めるのは危険だ。
ここにできた断層は、軽く前後の世代を引っ張り込み
地層をひっぱられて呑み込んでいく。

感想はあるけど語るべき言葉がでてこない。

飴屋法水は実に真摯に
演出をしている。
今に嘘をつかない。
自分の気持ちに嘘をつかない。
ちゃんと受け止める。
受け止められなければ受け止められないということを受け止める。
飴屋法水のそんな姿勢を感じる。

良い。
とても良い舞台だ。
でも良いと言うのが相応しいかどうかは分らない。


update2009/11/22

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『乱歩・白昼夢』/結城座

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理由なく、人が人を殺す時代になった。それはこの頃から始ったのかもしれない。

台詞は正確に覚えていないが、人形師が、物語を語り、人形の台詞を吐く。ダイレクトにメッセージが伝わってくる。
『芋虫』『屋根裏の散歩者』『一人二役』『人でなしの恋』を結城座用の脚本にして演出をした斉藤憐のメッセージなのか、結城孫三郎のメッセージなのかそれは分らないが、乱歩の時代風潮を平成に重ねようとしている。たしかに予感として経済恐慌を浴びた00年代は大正の前半に空気が似ている。
斉藤憐は、乱歩を通じて大正時代の日本、そして戦争へ向ってひた走る状況、そのなかでの浅草の庶民の姿を描き込んでいる。そこまでは乱歩の小説に社会性はないだろうが、それは斉藤憐の特質で、結城座の舞台にはもちろんあっている。
大正大震災の復興ができない批判をかわす為に、朝鮮人暴動の噂を流し虐殺したといういきさつもかなりリアルに書き込んでいる。
大正大震災と言えば、大流行だった娘義太夫が廃れていくのもそのことからだった。結城座は娘義太夫の竹本素京大夫が、劇団の柱だった。娘義太夫は、義太夫の演奏と語りを独りで演じる。文楽では弾きと語りは分かれている。最後の娘義太夫と言われる竹本素京は、2007年に亡くなられたが、人形を操る現場で、娘義太夫が続いていたことはとても貴重であり、なおかつ重要なことだった。
現場があって、語られる人形があって、義太夫は生きているのだ。
結城座の人形遣いは、文楽のようにすべてが分業化されていることに比べると特殊性であるが…人形も公演ごとに自作する。『乱歩・白昼夢』では、宇野亜喜良がデザインを担当した。鷲尾少尉(芋虫・乱歩)は、鷲鼻でどこかゲンズブールのようなフランス風な洒落た雰囲気になっている。もっと妖艶なはずの時子は、竹久夢二の描く大正少女を仄かに漂わせながら、宇野亜喜良の少女である。時代が混淆され、作家が自作と原作をテレコにして作りだす。生きている人形芝居だ。それでこそ人形に息吹が吹き込まれるというものだ。等身大の黒色すみれが、人形と一緒に演奏しても、それが浅草オペラを思わせながらいつもの黒色すみれであっても、ゆるやかに合わさっている。
少しいい加減に、それでいてメッセージとかイメージのあり方を明確に押さえている結城孫三郎の意図は、彼らしい選択であると思う。結城座が文化物としてでなく現役の、地べたで演じ続ける、人形あやつり一座として生きていくことを選んでいるのだから、これが道だと思うし、成功している。観客や参加するクリエーターたちを刺激する魅力を孫三郎はもっている。

結城座(東京芸術劇場 2009/08/19~08/23)


『芋虫』を読むならこれ。
江戸川乱歩は創元推理文庫が良い。連載時の挿画が再現されている。

update2009/08/24

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身体に流れる音の息吹

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「ENSEMBLES 09 休符だらけの音楽装置」展 EXTRAが終了した。

音楽や音の仕事をしてきたけれど、
今、初めて覚醒した音の感覚がある。
音のインスタレーション。

環境の中に音を配置するのではなく
音の波で空間を振動させるように音をそこに存在させる。
うねっていく音、音として認識できないような振動。

ビスは左右に部屋があってその真ん中に階段がある。
部屋を割っている階段と、丸い二つの窓が好きで、考えもなしに借りた。
その階段を音が波をうって、落ちたり上ったりしている。
坐って体感する。
場所によって音場は異なる。

バラッド社のMusikelectronicというスピーカーを使っているためでもあるが
可聴音域以外の音もクリアーに再生する。
それあっての今回のFilament(大友良英+Sachiko M)のインスタレーションだ。
聞こえない低周波の音は、粘度の固まりのようにどーんと鈍く存在しているものだと思っていたが
そこに形状の違いがあるのだと体感した。

出る低音の違いによってビスの壁が鳴ったり、床が震えたり、天井が共振したり
細かい差があるのが反応によって分かる。

クロージングコンサートの「コロスケ&くるみ&飴屋」
伊東篤宏
utah kawasaki
Sachiko M
大友良英

メンバーの音のパフォーマンスも覚醒的な出来事になっていた。
いつはじまるともなくはじまって
飴屋法水は水をもってきて大友の演奏の側に置き
窓を少しだけ開けた
そこにいてそうしたかったから
あとで飴屋法水はそう言っていたが
何も考えていない
そうとも言っていた。

水をはって
大友の音の振動が水面に波紋を起こす。
その波紋は飴屋の皮膚を振るわす。見ている脳を振るわす。
動きが手からはじまる。脳よりちょっと早く。
窓を開けたいな。風がちょっとだけ欲しい。波紋を壊さないような、風の波が。
風も音がさせている。
飴屋は風を演奏する。

ナハトの床に移った飴屋は飯台に水をはって
花火をする。
線香花火の真っ赤な球が水に落ちて
ぱちんとはじける。
ぱちん。じゅじゃないんだ。文学に毒されている頭が驚く。ぱちんなのか…。

一円玉を放り上げ、天井にぶつけ、壁にぶつけ
アルミは鈍い音で転がる。
ここで聞いた初めての音色。
乾ききったコンクリートには金属を投げてキンキンいわせる。その音は良く聞いた。
飴屋は一円玉。


空間の中で振幅して、広がってまた消滅していく音は
頭を介さないで手や、皮膚から入って腸で受けとめられ、また外へ出ていく。
飴屋法水はその音場に正直に行動しているように見える。

考えないのではなく
考えなくても場所や音や観客の歓声に応じて流れていけるのだ。

身をまかすというのでもなく
身を通すという感じ。


音の仕事もしていたけれど
音痴である理由が今、分かった気がする。

最近、ゴッドハンド、デビルハンドという言い方を良くするけれど
どんなに知識があって作法どおり入れても、お茶が巧く入らない人がいる。それをデビルハンド。
こんな感じかなと、適当にしても美味しく入る人がゴッドハンド。

でもそれは感性の良さというのともちょっと違う気がする。
生まれもっている手の性質なのだ。
お茶が駄目でもパンを焼くのが上手だったりする。嗜好性の問題のような気もする。

僕はパンと音がデビルハンド。
致命的だ。
でも音に対してなぜデビルハンドなのかは分かった気がする。
身体に音の流れを持っていないのだ。身体に音流があれば外の音にもシンクロできる。考えずに反応できる。
考えてするパフォーマンスは一つずつ遅れてしまう。
シンクロしないのだ。

何十年も死んでいた身体はそうそう音の流れを回復してはくれないだろう。
でも知ることは大切だ。
だめな身体を意識化することはとても重要なのだ。
思考するより反応が早くないと、手はデビルになる。

うーん。頭より速く動けるものが僕にあるのだろうか。
絶対的デビルハンドだったりすると嫌だなぁ。

update2009/08/18

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どこへ行くのか?

破裂したような状況で

なおかつ、雑誌を続けて、ギャラリーを運営して…。

どこにたどり着くのか分らないが
着くということはもうないのだろうと思う。
流れていく
その状況自体が
有り様であり、存在であると思う。

update2009/03/01