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『少女椿』丸尾末広
21巻の紙芝居『少女椿』にインスパイアーされた丸尾末広の『少女椿』
21巻通しで上演されることもあるらしい。見てみたい。
寺山修司が見世物の復権をかざしてアングラ芝居をしていたときの雰囲気やモチーフが『少女椿』にはある。
寺山修司は海外遠征をして、カントールや、ウイルスンなどの前衛演劇に触れる度に、モダンな、そしてコンテンポラリーな前衛演劇に変貌していった。寺山修司は短歌という身体性をブリッジに、最後まで、見世物的日本とつながっていたところがあり、それは『田園に死す』などの映画を見ると良く分る。
丸尾末広の『少女椿』は、アニメや芝居などにとてつもない影響を与えた。東京グランギニョールの飴屋法水も丸尾末広の世界を標榜する芝居だった。丸尾末広も舞台に登場し宣伝美術を担当していた。
夜想の後楽園球場を使ったイベントに東京グランギニョールに出演してもらったときも、全体のB全のポスターは丸尾さんだった。
見世物小屋はなくなり、寺山修司も作風を変え、少しずつみなが魔界の世界を離れぎみになった80年代、それでも丸尾末広の世界は、脈々と次世代に受け継がれていった。微妙に変貌しながら…。そして世紀の変わる頃に、アニメ版『少女椿』というとんでもない事件のような作品を生んだりもする。アニメ版『少女椿』は、映像にパフォーマンスが加味されて上映される。
見世物小屋の世界はどこまでも身体を絡めた事件を孕んで継承されていくのだ。
update2008/04/01
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『ロスト・イン・トランスレーション』 ソフィア・コッポラ
東京、新宿、パーク・ハイアット・ホテルをベースにプラトニックな愛を描いた、ソフィアコッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』
海外の作家が日本を描くと、必要なイメージをコラージュすることがある。ソフィアの映像にズレはない。新宿からハイアットに移動する風景は、そのまま現実の流れのままだ。出てくる登場人物も、例えばヒロ・ミックスがそのままに出てくる。
女の子の見た、ガーリーな感覚で見た、東京のドキュメントなのだ。私の見た東京。
『マリー・アントワネット』もソフィアの見た、感じた、フランスを、アントワネットの時代に置き換えた、一種のドキュメントなのだ。創作されている部分と、リアルな感覚で繋がっている部分のあり方が、男的ではないのだ。
update2008/03/18
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『マリー・アントワネット』 マカロンは続く
マカロンがどんどん来る。
スタッフが持ってきてくれたり、あるいはピエール・エルメのマカロン・ケーキを食べさせてくれたり。
+
ソフィア・コッポラは、マカロンの色にインスパイアーされて『マリー・アントワネット』を撮影した。マカロンのいろいろな色が、映像から感じられるように…したいと、マリー・アントワネットの時代にはない色を使っている。
++
それは蜷川実花が印画紙の発色にまでこだわって、色を作り出しているのにちょっと似た感覚かもしれない。色の配合、絶対的な色の感覚が、まずありきなのだ。ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』は、食べているお菓子とか、ファッションは史実とはまったく異る。スニーカー履いていたりするから。でも現代にマリー・アントワネットがいたら…当然、スニーカー履くよね、あるいはマリー・アントワネットの時代にスニーカーがあったら履くよねというとってつもないガーリーさによって撮影されている。いいなぁ。
+++
色彩とか音の感覚で台本を進めて行く、ロジックではない。
≒
もっともソフィアが好きなのは、僕が最近食べたピエール・エルメではなくLADURREのマカロンだ。ヴァレンタインには、三越で買えたらしい。ちょっと食べてみたかったな。
ピエール・エルメ
update2008/03/15
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『カリフォルニア物語』 吉田秋生 +スタジオ・ライフ
スタジオ・ライフの『カリフォルニア物語』を見に行く。
幕間でイリーコーヒー ちょっと薄い。
吉田秋生の原作は何度読み返しただろう。
僕にとっては自分の住んでいた湘南の匂いを感じる。
理想の男の子像って? 今から15年くらい前に聞かれた時に
吉田秋生に出てくるちょっとワルの主人公かなと言ったら
古ーい。今は、ダメンズと言われたのが懐かしい。
兄弟の父親を挟んだ微妙な嫉妬や愛がテーマ。
ボクにとっては余りに現実的で胸が痛かったり、郷愁をかき立てられたり。
update2008/03/09
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『癩王のテラス』 三島由紀夫
手紙がとどきました。
蝉の声がサイレンのように高いトーンで鳴り続けていてアンコール・トムを離れて日本に帰ってきた今もじんじんと熱をもっています。向こうから頼りをすればよかったのですが、黴と巨大な石の廃虚にただただ茫然としてあっというまに1週間がたって日本にもどってきてしまいました。
私のなかの『癩王のテラス』が一気に押しつぶされてしまいそうな哀しさを覚えたからです。不思議な日本語を操る少年のようなガイドを選んだのが間違いだったかもしれません。姿とは裏腹に暑いからと日蔭ばかりを歩き、やすんでは煙草をすう投げやりな態度に、精神に脂肪のついた中年男を見ました。怒るのも忘れてあきれ果て、すたすたと歩き出したのは良いのですが、道に迷い、結局どこがテラスだったのか分らなくなってしまいました。内戦でかなり荒れ果てた風景からは、黄金の仏像も癩王が立ったテラスの残照もなく、蝉の高いトーンだけが私に残された唯一のものとなって残りました。少年が胸に蝉を入れている話を昨日、教えてもらいましたが、胸に蝉を入れると、石の墓標の上を飛べるのですね。
この甲高い蝉の声には何か魔力がありましょうか。癩王も絶望の中にこの蝉の声を聞いていたのでしょうか。目も見えなくなった癩王は蝉の声の向こうに転生する来世を見たのでしょうか。癩王は来世を信じて絶望などしていなかったのでしょうか。私にはまだ分りません。手の中でヘッドが形を見せてくる頃に何かが見えてくるかもしれません。
update2008/01/13
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『ハライソ 笑う吸血鬼2』 丸尾末広
ハライソを読んだら、夢を見た。部屋中に蝉がとまっていた。大きいのやら小さいのやら、びっしりとまっていた。身体が震えているので啼いているのだろうけど、声はしない。障子から月の光が射していた。
外には浮游して高い梢からこちらを見下ろしている少年がいるのだろうか。
袋状の仮面を被っている少年が這いずりながら近づいてくる気配がする。
そこで僕は目が醒めた。耿之介少年の、白いシャツの胸のポケットに忍ばせた蝉が啼く。『ハライソ』のシーンが脳裏に焼き付いたからだろう。
決して大人にならない少年と少女。吸血鬼だからではなく、丸尾末広の少年は永遠に少年であるのだ。老人の変態性を兼ね備えていても。読む度に夢魔が甦る。幼いころ鎌倉で育った記憶の中の、そして浅草に漂っていた饐えたような空気の臭いが。
少年と少女たちの吸血譚。
update2008/01/11
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『少女写真館』 飯沢耕太郎
集めた少女写真が、飯沢耕太郎の収集した絵はがきが中心なので、無難なエロスにとどまっている。同じヴィクトリアン期でも高橋康成の『ビクトリア朝のアリスたち』には、少女娼婦や見るからに危ない少女ヌードが収集されている。写真は見せるものではなく秘かに保持された。だから密室の、被写体と撮影者の関係が妖しく残っている。絵はがきになると社会通念が反映される。ものたりないのはあたりまえだろう。
巻末の対談が面白い。本音を言わない飯沢耕太郎と、突っ込む伊藤 比呂美。そこでは少女についての男性からと女性からの視点がまったく絡み合わず展開している。その対立点を一つずつ検討していくと、欲望の発露に不自由になっている困惑する男性の姿が浮き彫りになってくる。それは飯沢耕太郎という男ではなく、時代に生きている男性としての不自由さだ。それは良いとか悪いとかの問題ではなく、そうなってしまって語られなくなってしまっていることの問題の方が大きい。
update2008/01/01