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ビス
星川さんのクルーがビスを取材に来てくれた。インタビューされるが、ここは、夜想に関連したクリエーターたちの実験場所で、実験場所には、観客もいるし、メディアもいる。
そんなものを一気にここで作り上げているのだと答えていた。余り意識はしていなかったが、そういうことなのかと自分で納得した。言うことは、カッコよいが、まだまだ途上のことで、それは夢として答えたのだと思う。
update2008/03/11
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シチリアのカタコンブ
巴里の街の下に見し、 カタコンブなる鈍色(にびいろ)の、 人骨などはよそのこと、 あの絵に描いた白い人
与謝野晶子の歌。
廃されたもの、虚になったものに趣を見ずに生命を見ていた与謝野晶子に強烈なポジティブさを感じる。この歌に写すと今の時代はなんと滅びを好んでいるのだろうか。
シチリアのカタコンブを最近、何度となく思い出す。荒俣宏さんの『ヨーロッパホラー&ファンタジー・ガイド』を読むと、恐ろしい感じを抱くものとして書かれている。僕は、シチリアのカタコンブには親和を覚える。フランチェスコの元々の精神を復活させようとフランチェスコ派から分派したカプチン会の墓地。今はフランチェスコ会が管理している。その地下墳墓に眠る8000のミイラ。骸骨化したカタコンブの多い中、ミイラというのはまさに鈍色の人骨と白い人との間にある黒い人である。見たとき田中泯の群舞を思った。土方巽の暗黒舞踏ではない。カサカサしたディテールの生命感ではなく、黒一色の生命感だ。階級別、性別に並んでいる中、一組の老夫婦だ
けが、例外に一緒に並んでいる。ずっと、ずっとそうしている。死ぬときにこの状態を望んだのだろうか。そして半永久的に二人はそのままにいるだろう。
1920年、2歳で死んだ世界で最も美しい屍体と言われているロザリア・ロンバルドの遺体も収められている。
まるで生きているかのように。20世紀の屍体が収められるのは特例だが美しい子だったので収柩されたのだろうか。ミイラにする技術が1920年代にまだ残っていたのだろうか。
荒俣宏さんの著作は、ちょうど渋沢龍彦がした仕事を次世代が受け継いでよりホラーを見えるものとした仕事である。黄昏は、そうしてしだいに黎明期になっていく。
『黒魔術の手帖』は学生の頃のバイブルの一冊だった。
荒俣さんの次の世代はもっと分るものとしてファンタジーやホラーを描いていくのだろうか。しかし…と思う。そうでないあり方も可能なのではないだろうか。畏怖をもたずに幻を身体の供とするような。
瀧口修造さんの弟子達は、ある時、瀧口さんの怒りをかって破門にされた。それは逆だろうと思う。弟子は師匠を越えるために師匠殺しをしなくてはならない。弟子がエピゴーネンになってはいけない。瀧口さんは時代的にベストだったかもしれないが、時代が変われば足りなかった資料が、手に入るようになったり状況も変わる。師匠と異る結論を導きされることもあるだあろう。それをすることが弟子の役割だし、愛をもって師匠を越えるということだ。そうして時代は進んでいくのだ。
ことは簡単ではない。深瀬昌久さんの足手まといの弟子をしているときに、言われたことがある。俺を越える意志と可能性がないなら今すぐ写真を辞めろと。優しい師匠だった。
update2008/03/07
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川の流れ
川を下って行くあの船のように ゆらゆら揺れながら流れて行こう。(浅川マキ
久しぶりにビスのそばの『ルーサイト・ギャラリー』のテラスに立って隅田川を見る。川の流れはゆったりとしていて、記憶の中の感覚とまるで一緒だ。まるで時がとまっているように。その時、まわりに人はいなくなっても川の水は変わらず流れていく。
市丸さんが住んでいたこの邸は、今おそらく隅田川そばに立っている数少ない話建築の一つだろう。そしてここに立っていると江戸時代、ここから山谷堀を通って吉原に向う猪牙船が出ていたことを思う。華やかな時、そして今は花街もなくなり、料亭もすべて営業をやめた。
BISでは今週末から小島文美さんの展覧会がある。ゲームの原画も展示される。まとまって原画が展示されるのは始めてのこと、本人も、最初で最後の集結かも…と。
update2008/03/06
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蒙古斑革命
高木由利子さんのスタジオには壁に何枚も何枚も写真がはってあって
前にチベット風の(違うかもしれないが…)小さな祭壇があって、深い紅の布が強いてあった。膝まづいて手を合わせる。
小夜子さんは若い仲間たちといつもと変わらない風情で涼やかな瞳でこちらを見ていた。
展覧会も夜想の特集ももう作れないけれど…それは現在時の小夜子を特集したかったから
こうしてここに来て、遺志を何かで形にしていきますよと小夜子さんにそっと伝える。
蒙古斑革命というプロジェクトは高木由利子さんと山口小夜子さんで編んでいたもの。
そこには二人のスピリチャルな精神が反映していた。
update2008/03/05
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草間彌生 わたし大好き 映画
50枚の絵画を描くことを自分に課してそれに向う
草間彌生を撮らせている草間彌生。
ドキュメンタリー映画『草間彌生 わたし大好き』
映像の中でどんどん変化している草間彌生を見ていると
昔、本を作った時に打ち合わせをした時のことを思いだす。
以前に比べて死を語ることが多くなった。前ならわたしは死なないわよという勢いだった。
桜の詩が素敵だった。それは僕もいつも桜の季節には必ず訪れる谷中墓地。
49枚目の絵が写しだされる。もう50枚目のように完成している。絵は、ローリングしながら徐々にセグメント化されて抽象化する。ちょっと草間彌生の絵にしては抽象化しすぎたかな…のきらいもある。50枚目をどう描くのだろうと興味が最高潮になる。
50枚目は白キャンバスにしますか?用意してあるのにしますか?アシスタントが聞く。
さっき、ずっと悩んでいたのはこれなのか…。
50枚目は描きかけのを選択した。構造がすでに描いてある。
興味がさらに湧く。これを仕込んだのはいつだろうか?そして絵は、50枚目にふさわしく抽象+少々の混沌のバランスのとれたものになった。素晴らしい!!
絵が、道を歩いて行く。全部の経過を見たい。どうなって50枚目までにたどりついたのか。
それは展覧会を見にいって確認しよう。
一人の切り込みが何かを残す。
何かを見せてくれる。
大切なことだ。草間彌生はまだ生きて仕事をしている。
晩年にこんな作品ができてどうですか?
と、ドキュメンタリー監督は間抜けなことを聞いていたが、さすがに草間彌生、飽きれて苦笑していた。
わたしはもう晩年なの?
失礼な、生きている、そして今がはじまりと言い続けている作家に対して。
しかし全編の間抜けな質問が、逆にそれに応じている草間彌生の生を見せてくれていた。
update2008/03/04
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桃のおまんじゅう
『アノマ』で雪片を飲んで軽食。
散歩の番組にBISがちらりと写るかもという話をする。
雛祭りが近い。桃のお饅頭。
神戸の華僑協会でバイトをさせてもらったことがある。お祭りのときに。
その時に覚えたのが、桃のおまんじゅう。小さなお饅頭がたくさん巨大なお饅頭の中に入っている。
縁起物らしい。
update2008/03/02
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体調が悪いと
体調が悪いと視野が狭くなる。
見えているものが、自分の手に近いところになってしまう。
新国立劇場で岸田戯曲の2本を見た。『屋上庭園』『動員挿話』
女性の視点を含んだ戯曲を書いていたのだと感心した。
女性側からみたフェミニズムではなく全体から見ている。
戦争に対する批判的なところもある。
男は、虚栄とプライド。世間体。
女は、愛と我慢と爆発。そして優しさ。
岸田國士はかなり戦争に協力した文士だ。戦争中はどんなものを書いていたのかな…。
帰りの地下鉄で浅川マキを聞いていた。もっとブルーになるかと思ったら
マキの声は意外にも明るさをもっている。
おんな歌でもないし、元気をもらった。
update2008/02/29