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めずらしく
めずらしく霧がかかっている。
『上海の伯爵夫人』の映画を見ていたので
上海の霧を見てみたいと思うようになった。
小さな映画館の特集をしていた『サライ』に藤村志保が
『かくも長き不在』を見た感動を語っていた。
何も変わらない太平洋の防波堤
デュラスの原作を見事に映画にした。
『上海の伯爵夫人』悪くないのだが
少しドラマティック過ぎて
もう少し何もないところが欲しい。
音楽もピッタリ入れすぎでちょっと下品だった。
ヒットするためには、感動を誘うためには必要なんだろうな。
何もないような
『かくも長き不在』やっぱり素敵だ。
もう一度、見たくなった。
update2008/02/22
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知恵熱のような疲労困憊
BISの運営はいろいろな人の助けをもらっているのだけれど
かなりのプレッシャーを受けていたみたいだ。
最近、生き生きとした大らかさがないね と、言われたりもした。
mustの優先することが多いからかもしれない。一昨日は、どうしたらこんなに疲労するの?とマッサージ師に言われ、いきなりのもみ返しで、歩けないほどの痛みとだるさが襲ってきた。これだけの乳酸を貯めてたのか…。
昨日から今日にかけては腹下しで薬も効かない。もう20時間近く連続していて、寝れない。
思考がネガティブになりそうで、身体のマイナスはかなり心に響くんだなぁと驚いた。
次の展覧会の準備に入る前には、体調を整えないと。またさらに見えるものが増えてきた様な気がしていて、感覚はフレッシュなんだけれど、どうも身体がついてこない。トレーニングはしているんだけどね。
明日は、元気になるといいな。
update2008/02/19
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PIERRE HERME (ピエール・エルメ)
イベントの準備もしつつ次の展覧会の準備もしつつ夜想のことも考えている。
スタッフはかなりいっぱいっぱいだけれども、みな自分のこととしていろいろやってくれている。感謝。
それでも気を遠くに飛ばして広く空気を身体に入れないと、狭い感じの作りになってしまう。スタッフのみなには悪いが外にでる。
次号、夜想の相談を夜から朝にかけてする。
「ヴェルサイユ」展覧会スペシャルのマカロンを出されて、ふーんという感じで摘んだら、これが美味しかった。
マカロンってこんな美味しい食べ物だったの?
PIERRE HERME (ピエール・エルメ)のを食べたのだけど、今は、他のお店のもこのくらい美味しいのかな?
話はだいぶまとまって撮影のことまで進んだ。
それにつけても、と、また山口小夜子さんの話になった。これからドラスティックに仕事ぶりが変わる予感がしていたのに…というのが皆の共通の意見だ。
update2008/02/14
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今日はアンジェラス
最近、来ていないじゃないの?
言われて今日のカフェをアンジェラスにしようと決める。飲むのはスペシャル・コーヒー。豆はブルマンだ。
アンジェラスで『カルチュラル・スタディーズ』吉見俊哉編・講談社を読む。
『どこから来たんじゃねぇんだよ』という言葉からは「私はどこから来たのか?」という長い問いの時間の存在を考えざるを得ない。そして「どこにいるかなんだ」という言葉からは、現在の引き裂かれた、不安定な自分を受け入れようという積極的な肯定を感じる。
という一文がある。
無意識に劣化コピーを重ねて、変形をしていくイメージ。原型はさ…と口を挟むと、そんなの関係ないと答える人がいる。そこに今の気分が反映されている。そしてゴシックがゴスに、人形がドールになっていく、そしてなったところは、時代のアイデンティファイとなるところ。今、ここにいるんだという地点。
update2008/02/12
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お茶を入れたり、コーヒーを入れたり
久しぶりにお茶番頭をしようと、
マンデリン・ベースの豆とマリアージュ・フルールの『エロス』を買いに銀座に自転車を飛ばす。
浅草橋に戻って照明の準備と味見にコーヒーを入れる。
そうそう金子國義さんの展覧会に顔をだしたけれど、終始歌舞伎の話と、自分のステージの話し…。
またまた菊之助よかったよと…菊之助自慢。
アリスのお姉さんが暴れていた。金子國義さんもけっこうゴスだよな…。ねぇねぇ、世の中は何でこんなに気持ち悪くなっちゃうの?
と、耽美不足を嘆いておられた。
update2008/02/09
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碧のイリー・カップ
ヤン・ファーブルのイリー・コレクション。
ヴェネチア・ビエンナーレで発表された『劇的狂気の力』1984年が、パルコ劇場で上演されたのは1986年のことだった。あの頃、コンテンポラリーと呼ばれる、美術や舞台が本格的に日本に入ってきた頃だ。1984年ボイスが来日した。今ある日本の現代美術がそこで懐胎した。東京芸大での学生対話集会では、司会を宮島達男が務め、実行委委員には長谷川祐子もいた。西武百貨店がノンプロフィットで撮影クルーを出し、僕もそこに参加した。撮影クルーには畠山直哉やポケモンを作った石原恒和などもいた。
ボイス来日の記録は、ペヨトル工房のボイス・イン・ジャパンに結晶したが、ビデオブックも本も余り売れなかった。でも種子を懐胎できたことが誇りだった。その2年後、ヤン・ファーブルは、『劇的狂気の力』を引っさげて来日するのだが、寺山修司などから噂だけを聞いていて詳細は分らなかった。ずっと演劇の人だと思っていた。
オープニングは強烈で、ミニマルな繰り返しの動作の中で、袋にいれたカエルを踏みつぶした。パフォーマンスは延々と続き、その余りのミニマルさに挑発されて、観客が舞台に向って、『おめらのやっていることは、最後までおみとうしだ。やめろ!やめろ!くだらない』と叫んで詰め寄ったりした。客席は出入り自由になっているほど上演時間は長かった。背景には美術の歴史的な作品がどんどん出てきて、それを否定するようなパフォーマンスだったように思う。最後にボイスの作品が出て、演者が「ヤン・ファーブル!」と叫んで終わる。パフォーマンスとしてもカッコよかった。それで舞台表現をやめるというのもカッコよかった。
その後、美術作品を中心に活動をし、舞台作品もまた作るようになった。
ペヨトル工房ではヤン・ファーブルの読本を出版した。
update2008/02/04
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節分の夢見
珍しく、夢を見た。
信じられないくらいロジカルなことを考えていた。起きてメモをつけようとしたらすーっと雪空に消えていった。
無常について書かれたブログを読んだからかもしれない。本を読み解く素晴らしい能力を持っている人がいて、生き様によってそれが機能しないこともあり、それはちょっと哀しいことだ。哀しいといって余裕をかませている分けにはいかない。自分の方がもっともっと生き様や、結果によって、僅かしか与えられていない能力を発揮できないでいたりする。それでいて駄目だ、なんて思ってみたりする。それだから人間なんだと思うけれど。
感覚は正直にものの本質を伝えてくれるけど、しばしば生き様の影響を受けて、歪んでしまう。それを補償するのがロジックなんだと思うが、ロジックは最近、使い方を間違われているような気がする。僕も影響を受けている。自分の描いた結果から、逆算して使うロジック、結果の分ったゲームをするようなところがある。探偵小説は、逆算で成立している。逆算しないで書く純文学というジャンルもある。その両方を同じに扱ってはいけないだろう。
ロジックは見えない結果を類推するために使うものだと思う。
嵐くんに鬼になってもらうとしたら、投げる前に豆を食べちゃうわ、居眠りをするわで、役にたちませんでした。
update2008/02/03