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花代の幽霊
ビスのプレオープン。
久しぶりに赤々舎の姫野さんと会う。
花代さんとトークショウ。
今回の写真展にはイメージのゴーストが使われている。
重ねて出てくる幽霊。
話をしていて気がついたのだが
写真を重ねてイメージが曖昧になるほど
花代が写真を通して向っていたもの
自分のなかにあるもの
それがはっきりと出てきている
8mmの作品もじっくり見ていると
森の奥にいる幽霊のその向こうにいる
感覚の魂がはっきりと見えてくる。
私が死んだ後
撮った膨大な写真のフィルムを見たら何かが分るかもね
って、花代は笑っていたけど
そうかもしれない。それに向い合えるきっかけになると思う今回の展覧会は
かなり面白くできたと思う。
花代の幽霊……。
うん、いいかもなあ。
update2010/02/11
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訪れるもの
今回、展覧会をしてくれる
清水真理も花代も
最初に出会ったのは、もうだいぶ前のことになる
18年とか20年とか。
二人は会う以前に夜想に出会ってくれていた。
二人が夜想にであったのはさらに前のこと。
清水真理さんは、セッティングの最中に
ここに来るまでだいぶかかっちゃったけど
あたためていたものがようやく爆発するように形になってたくさん出てきた
もう最初で最後の展示になるかも
と、微笑んだ。
フリークスのテーマで展示するのは、ビスの会場だけ。
人形をお迎えしてもらうのもここビスでだけ。
オンリーワンの姿をした人形たちは
どのこも可愛い。
それは清水真理が、優しいから。
そして許された瞬間をもっているから。
私は、いつも待ち続けてきたのかもしれない。
何かが訪れてくるのを。
この果実の結実は
あっと言うまに終わる。もうしばらく訪れないだろう。
だって、長い間あたためてきたものが
出来するのだから。
そうそう次に出てくるはずがない。
だから
できたら
見逃さないで欲しい。
繋がりと
訪れてくるものと
そんな連鎖がはじまるだろうから。
そして次の結実がなされるころ
僕は本当の傍観者になっているだろうから。
木の実の結果を僕は食べることがないだろうから。
だから愛おしく展覧会の果実を享受することにする。
美しい子たちの生みだす未来を思って。
update2010/02/10
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言葉は余り
言葉は余り出ないのだけれど
画家が身罷ったのを昨日、聞いた。
愛されることに一生懸命だった人。
愛さない人に静かな怒りをもった人。
もちろん
語るべきは私ではなく、愛した人たち。
渡辺高士。
夜想に何回か絵を寄せてくれた。
かさかさに乾いて、でも仄かに生気を残して
剥離した鉱物の皮膚でできているような華が夜想の屍体に
押し花になっている。
キャンバスにはたくさん残っていないけれど
ずっとずっと絵を描いていたんだろうと思う。
不実な私に彼を語る言葉はない。
それでも涙することを許して欲しい。
あなたの描く絵が好きだったから…。
update2010/01/23
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浅川マキ Ⅱ
暗闇の匂いがする
それはもう変わってしまった
六本木のゴトービルの中にある
アパートの部屋にある闇。
そこは麻布十番の今は地下に埋もれてしまった
天井棧敷の闇だったり
男たちの
音へ寄せる思いの闇だったりする
3月4日のお別れ会まで
i-podは浅川マキしか流れないようにした。
i-podであたしを聞くなんて
マキはそう言うかも知れないが
都会の夜を走りながら
深い、深い
男たちの弾くベースや
近藤等則のペットや
少し晴れやかな気持ちをのせた渋谷毅のピアノに
身をまかせるのも悪くない。
集中して聞かれなくなっていてごめんね。
でも向こうまではもう何マイルもないから…。
update2010/01/15
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塔の影が
東京スカイツリーの作りかけの塔の部分が時折
川を越えてこちら側の浅草にのびてきているような
錯覚に陥ることがある。
浅草のこちら側から見えるスカイツリーは
なぜか少し荒廃を抱えている。
バベルの塔などと陳腐なことを思っても見るが
それとも違う何もなさだ。
エッフェル塔の製作途中は写真で残されている。
未来と繁栄を予感させたが
スカイツリーの半分の伽藍は
希望を余りもてない感じがする。
どうしてなんだろう。
この感じは。
旧江戸の墨田と浅草は塔の伽藍の影に覆われている。
大震災で折れた十二階を思わせるからだろうか。
朝陽の中でも
スカイツリーはなぜか寂しい。
update2009/12/21
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メディア、みな生きのびよ
のっかるものがもうないのかもしれないが
ゴスロリの文化にのっかって
カワイイ大使とかカワイイ☆TVとか
ゴスロリとはちがう実体のない拡散をしまくっていると
本体のゴスロリの散逸がはじまってしまうかもしれない。
基本的にはストリートからはじまった
マイノリティであるから。
余りに劣化したイメージが拡がると
嫌気がさしてしまうかもしれない。
ゴスロリ自体
ゴシックとロリータのちょっと合わないような、でも遠いところで
かなり本質的な邂逅をしているもので
ある種の拡散状態でもあるからだ。
『KERA』とかその類書は文化面を減らしてファッションカタログのようになってしまっているが
それでもストリートから発信した精神をもっている。
余計なお世話、自分のことを心配したほうが良いと言われるかもしれないが
絶対に強く生きのびて欲しい。
他にもサブカルの文化を支える
雑誌や出版社があるが、イメージの拡散に負けず
生きて欲しいと思う。
そして最も強く思うのは
自分のメディアであり、生きのびたいと思う。
存在し続けるために生きのびるのではなく
強く発信し、それを受けてもらえるように
生きのびたいということだ。
巨体メディアはいい加減でおそらく流行がすぎたら
さっと引くだろう。
そうはいかないのは
そこに生きているメディアである。
ともに。
生きのびたい、相互あって、いろいろあって
メディアは生命をもつ。
update2009/12/19
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1年ぶりで大きく息をして
下を向いて
ちょっと小さく、ため息のように吐きだしてみたりする。
不況も、エッジが立った感じでなく
ボディブローのように利いてくるような感じで
自分の前に立ちはだかっている。
まだ試練をくれるのかとも思うが
試練に立ち向かう気持があるのだから、それはそれ。良いのかもしれない。
毎日、どうやって成立させていこうか、そればかり考えている。
そんな中で
本を読む感覚がもう少し甦ってこないかなぁと思う。
『APIED』なんていう雑誌を読んでいると
本読みながら朽ちていくというのは
素敵だなぁと。
しかし静かに朽ちるというのと今の自分の生活感覚がどれだけかけ離れていることか。
朽ちて読むという感じが戻らないと
本読みとしては恥ずかしい。
冬の朝
仲見世を走ると
風が本当は朽ちている身体なんだよと
お堂の向こうの闇に
引っ張ってくれる
その引っ張られるどうしようもなさが
良かったりもする。
update2009/12/18