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2008/05/29

凶、凶、吉。

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山門に灯はなく

仲見世の白色灯だけがやけに明るい。

昏い山門をくぐろうと浅草寺幼稚園の前にさしかかると
ひらひらと地を白い紙が翔んでいく
少し追ってみるともう一枚。

絡み合うようにして山門の方へ抜けていく
ひらりとまった二枚の紙は竜の水道の溜まりに落ちた。

見ると二枚の凶のお御籤。凶、凶。
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僕は夜想の編集長なのでほとんど神社仏閣に手を合わせない。神頼みすると切りがない。負をたくさん集めると役になると勝手に思っている。夜想だもの雑誌が出る時に祓われるでしょう。たぶん。そんな気持ちでずっとやってきた。凶、凶は、たぶん吉。

それっ!!

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2008/05/29

『屋根裏の散歩者』江戸川乱歩 1925

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奥山茶屋側の十二階があったあたり

30年ほど前に、カメラをもって彷徨い歩いていた頃はひょっこり侏儒のカップルが目の前を通っていったりした。
だけどそれは違和感のない風景で、とりたてて何かをする気にもならなかった。改めて探して見ればネガの中にそんなカップルが写っているかもしれないが…。

十二階にインスパイアーされて書いたという『屋根裏の散歩者』は、塔から覗くのではなく、下宿館の屋根裏から殺人を犯そうとする三郎の話だ。読みながら思い出したのだが、自分の家も北鎌倉の古い家で、趣味で押し入れに寝起きしていたことがある。そして同じように押し入れの一番端の天井板は簡単に動かせて、そこから天井裏へ入ることができた。電気工事や屋根の補修のための入り口というのもまったく同じであった。

天井板は薄く乗ったらばりばりと壊れてしまう。梁を歩く他はない。ネズミの足跡がたくさんついていた。

『屋根裏の散歩者』の面白さは、三郎の心理を一人称で書いているところであり、事件を解決する明智小五郎は、犯罪者が犯罪がばれてしまったときに陥る、茫然とした感じを描きたいがための設定である。妄想の変態から、ふとしたことで実行にうつし、それがばれてしまう心理を描いている。かなり面白い作品だと思う。

++
変態度をアピールするために、明智小五郎と郷田三郎が犯罪話をするシーンがあるが、そこに出てくる子どもを殺して養父のハンセン氏病を直そうとした、その実、養父を殺した野口男三郎や、小酒井不木が書いたウエブスター博士のこととかが、当時の猟奇流行を反映していて興味深い。

+++
妲妃のお百とか蠎蛇お由だとかいう毒婦の様な気分で…と郷田三郎がひとりごちする。妲妃のお百と蠎蛇お由は、三代目田之助が得意にした出し物で、現代では澤村宗十郎さんが国立劇場で、復活上演された。さらっとこのあたりを書く乱歩である。

毒婦は、悪婆ものと言われていて、悪婆とは役柄の名称で別に歳をとっている設定になっている訳ではない。美しい女形が汚れるというのが良いところで、当代で言えば玉三郎さんだろう。玉三郎さん実際にそうした自虐的な役で妖艶に煌めいて見せる。
宗十郎さんは、シェークスピアで言う阿呆の役ができる方で、大らかなユーモアの演技力は比類ないものだった。宗十郎さんの悪婆もまた素敵な演技で、悪さを感じない、それでいてどんどん逸脱していく破天荒さを出されていて、これまた澤村宗十郎ならではの芸だった。

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2008/05/28

『水晶の卵』H・G・ウェルズ 1987年

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卵の向こうに火星が見える。

現在、火星では、探査機「フェニックス」が生命体の可能性を探している。火星に生命を見たい地球人の願望は、今にはじまったことではない。ヴィクトリア朝の19世紀末イギリスでも、火星に宇宙人を妄想した。

1897年にウェルズは、骨董商の店先にあった水晶の卵を通して、火星を見ていた。ちょうどスカイプを使って火星人と顔を合わせる感じだ。『水晶の卵』は『宇宙戦争』の1年前の作品である。

水晶の彼方に月が二つ見える。高いところから全部を眺めて見たい。そんなことを書いて、火星を感じさせる。

ウェルズはSF作家と言われているが、僕にはどちらかというと幻想的な作家のように思われる。火星が見えるというアイデアも素敵だが、夜な夜な卵形の水晶を覗き込んでは、天使のような姿が見えるなどいう、鉱物嗜好、そして鉱物の中に宇宙が拡がっているという幻想小説の原点のような感覚を好ましいと思う。文学としての筆致がありアイデア倒れしていないのがお気に入りだ。

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2008/05/28

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頭なんておこがましいからよ

兜なんだよ。尾頭つきなんていうじゃねぇか。だけどよ…。

いつのまにか『色川』さんも黙ってメニューにしてくれている。
今日は奥で宴会があるので、焼き鳥、肝、兜、2本ずつのフルセット。? いつもより黒い?
ううーん。焦げが鰻の油を吸った炭の薫りで香ばしい。美味しい。

江戸にいて良かったなとつくづく。
鎌倉文化人は浅草に通うのが好きだったらしいけど、30年前から浅草をうろうろして、今じゃこっちが長くなってしまった。三代住まないと江戸っ子じゃないらしいけど、間に合わないや。ここにいて江戸の空気を吸っていればそれでいい。

+
合羽橋の入り口にある生涯学習センターの図書館には、池波正太郎コーナーがあって、浅草が故郷だと言っている二天門前の姿が映っている。

++
子であるかどうかはともかく、ご飯の美味しい、そして気を使っていないような、それでいてなんとなく受け入れてくれている、この感じはとても好きだ。


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2008/05/28

『モロー博士の島』H・G・ウェルズ 1896年

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モンスターもので好きなのは『フランケンシュタイン』と『ドラキュラ』そして

『モロー博士の島』(H・G・ウェルズ)だ。
書かれたのは1896年。ブラム・ストーカーが『ドラキュラ』を完成させる1年前のことである。この時代の作品はそれぞれに背景があって面白いが、背景にはダーウィンの進化論がある。主人公のプレンディックが、T・H・ハクスリー教授に生物学の講義を受けたと語るところは、まさにウェルズのそのままであり、ハクスリーは「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれたダーウィン進化論の論者であった。論争が好きでないダーウィンに代わって論争を一手に引き受けたのがハクスリーで、ウェルズは、彼に進化論をたたき込まれた。その進化論がウェルズの小説に色濃く影を落とす。

まさに影なのは、進化して素晴らしい人類ができるという方向ではなくて、人すら野獣に戻るかもしれないという進化論の退化可能性のほうに影響を受けているからだ。

+
ジョン・ハンターという名前も出てくる。ハンターは、18世紀の解剖学医であり、ここではキメラをや動物から人間を作るモローの技術的イメージの背景として使われている。

++
面白いのはモローによって一旦、進化した動物が、人間になって、また再び退化していくというところだ。ダーウィンの進化論は、神学に大きな打撃を与えたと同時に、退化もまたあるのだという恐怖である。物語は、モローの島からロンドンに帰った、プレンディックが、自分もまた野獣に退化するのではないかという怖れをもって、秘かに研究に生きるところで終わる。


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2008/05/27

『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』 石井輝男

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『パノラマ島奇譚』のタイトルで映画やテレビドラマになっているものはあるのだろうか。
テレビドラマの明智小五郎シリーズで、原作を『パノラマ島綺譚』にしている『天国と地獄の美女』はある。あとは、石井輝男の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』が、『パノラマ島奇談』と『孤島の鬼』をベースにしている。大筋の原型は『パノラマ島奇談』からとっているが、あくまでも土方巽扮する、菰田丈五郎が、人工的に奇形を生み出し、自分の奇形を嫌悪した妻に復讐するという畸型譚になっている。

土方巽の海岸での踊りを観ていると、大野一雄に振り付けたような形も見え、脈々と暗黒舞踏を流れているものが何かということがひしひしと感じられる。芦川羊子の姿や、火と人間を同じようにしてぶん廻す白虎社の面々も踊っているし、島のシーンはとてつもなく懐かしい。この映画の前年、土方巽は『肉体の叛乱』を上演している、中で使われたシーンやセットが出てくるのが、ぐっとくる。踊っているところは、しっかりと踊っている舞踏手たちの若く、荒々しい見得が素晴らしい。

最後、ややそれまでのトーンとは異って、荒唐無稽に花火とともに薦田と千代の首や手が、宙を浮游するが、これは乱歩の『パノラマ島奇談』のラストからそのままもってきたイメージだ。

+
江戸川乱歩は自らの日記、『探偵小説四十年史』の中で12階に登ってアイデアを得て『屋根裏の散歩者』を書いたと言っている。

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2008/05/20

かんざし

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柳橋のビスから裏を通って、ガードを潜り、柳橋を渡り、直角に曲がるとすぐ両国橋。

両国橋を渡って川の向こうに行く。
風を孕みながら走るこのコースが最近ちょっとお気に入り。

柳橋には簪がある。
ライトアップもされている。
川遊びの屋形船が舫われている。

江戸時代、お大尽は柳橋から猪牙舟で隅田川を上り、山谷堀から土手を通って吉原に通った。
おそらくその猪牙舟は柳橋あたりから出たのだろう。柳橋芸者は、色を売らず芸を売っていた。ゆえにそこから吉原へ繰りだしたのだ。

今、もう花街も料亭もない。近くにある『ルーサイトギャラリー』のオーナーは元料亭『稲垣』のお嬢さん、祖父が柳橋の川開きを始めた人だ。

ギャラリーに余裕が出たら、お茶会を催したりもしようかな。

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2008/05/20

三社祭

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宮出しが無くなってしまった今年の三社祭

表は賑わっているが、浅草の芯の部分は閑散としている。
景気付けに今半の弁当を買って食べてみる。

そっちの方の人を完全に押さえ込もうとしているのだろうけど、観光客にのみ向いている三社祭もなんだか寂しい。
というかまずいでしょうそれじゃ。

観光客は見かけの浅草みやげ、そして新興のライトミールのお店ばかりに向う。
こんなんでいいのかなぁ。

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2008/05/19

『探偵小説40年』江戸川乱歩 1954年 

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『探偵小説40年』は江戸川乱歩の自伝に近いものである。
作家としてデューする前にこんなことを書いている。


  私はこの小説がポーの『アルンハイムの地所』や『ランドアの屋敷』の着想に酷似していることにすぐに気づき、ああ日本にもこういう作家がいたのか、これなら日本の小説だって好きになれるぞと、殆んど狂気したのであった。


この小説とは、谷崎潤一郎の『金色の死』である。世の中的には『金色の死』を使って『パノラマ島奇談』を書いたと言われている。谷崎潤一郎でもポーを下敷きにするのだから、自分ならもっと…と思ったのだろうか。そういう面もかなりあると思うが、むしろ自然主義全盛の中で、谷崎が幻想的な作品をポーに倣って書いたということに勇気づけられたのではないだろうか。

筋を流用するというのは、谷崎潤一郎がやる、やらないかかわらず普通に行われていたことなのだろう。乱歩は『探偵小説40年』にこうも書いている。


 ポーの短編のうちで、前々から使って見たいと思っていた筋が二つある。一つは『ポップ・フロッグ』もう一つは『スフィンクス』である。『スフィンクス』はいまだに扱いかねているけれども、『ポップ・フロッグ』の方は即ち『踊る一寸法師』である。翻案とか真似というには、少し離れすぎているが…


翻案とか真似ならもう少し似ていないと…と言外に言っている。大正14年の頃の小説は、海外有名小説の筋や設定をそのまま使うことは普通のことで隠すことでもなんでもなかったのだ。それは大文豪と言われている谷崎潤一郎にしてもそうであるし、世の中的にもそれが常識だったのだ。日本の小説はそこをベースに発展してきていると言って良い。オリジナルという感覚が薄い国なのだろうな。


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2008/05/18

白蝋変化 横溝正史全集2

『鑞人』

蔵の中で鑞人となった今朝次を愛撫する盲目の芸妓珊瑚。この耽美、デカダンスは類を見ない。


ちょっと話しはそれるが、長谷川時雨は、鏡花の『日本橋』に田舎もので日本橋を知らないと公言した。たしかに日本橋生まれの時雨にとって、鏡花の描く日本橋・花柳界はそぐわないものだったかもしれない。潔癖症だった鏡花が粋な遊びをしたはずもなく、神楽坂の芸妓を妻にしたといっても、それが花柳界というものを体感できたかどうかは分らない。日本橋に出てくる唄でもちょっと気になるところはある。
もちろんそのことと鏡花の文学としての『日本橋』が面白いということは別である。『天守物語』などの荒唐無稽さに現実性が欠けているというのと変わらないからだ。鏡花にしてもなかなか、芸者と旦那の関係をままに描けないものだし、そこに間夫が出てくれば、典型的な物語になってしまいそうだ。歌舞伎にもあるし。が、横溝正史は、旦那が金と嫉妬を振り回す異常さを妙にリアルに描いていて、実際、こんな感覚で旦那は妻にした芸妓と付き合っているんだろうなと思う。そのリアルな感じ、自然主義的な描写を起点に、蝋人形の形代を盲目になった珊瑚が愛するという、不可思議さへ一気に向っていく様が良い。

こね繰り回さない最後もすらっとしていて美的である。


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