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2008/05/29
凶、凶、吉。
山門に灯はなく
仲見世の白色灯だけがやけに明るい。
昏い山門をくぐろうと浅草寺幼稚園の前にさしかかると
ひらひらと地を白い紙が翔んでいく
少し追ってみるともう一枚。
絡み合うようにして山門の方へ抜けていく
ひらりとまった二枚の紙は竜の水道の溜まりに落ちた。
見ると二枚の凶のお御籤。凶、凶。
僕は夜想の編集長なのでほとんど神社仏閣に手を合わせない。神頼みすると切りがない。負をたくさん集めると役になると勝手に思っている。夜想だもの雑誌が出る時に祓われるでしょう。たぶん。そんな気持ちでずっとやってきた。凶、凶は、たぶん吉。
それっ!!
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2008/05/29
『屋根裏の散歩者』江戸川乱歩 1925
奥山茶屋側の十二階があったあたり
30年ほど前に、カメラをもって彷徨い歩いていた頃はひょっこり侏儒のカップルが目の前を通っていったりした。
だけどそれは違和感のない風景で、とりたてて何かをする気にもならなかった。改めて探して見ればネガの中にそんなカップルが写っているかもしれないが…。
十二階にインスパイアーされて書いたという『屋根裏の散歩者』は、塔から覗くのではなく、下宿館の屋根裏から殺人を犯そうとする三郎の話だ。読みながら思い出したのだが、自分の家も北鎌倉の古い家で、趣味で押し入れに寝起きしていたことがある。そして同じように押し入れの一番端の天井板は簡単に動かせて、そこから天井裏へ入ることができた。電気工事や屋根の補修のための入り口というのもまったく同じであった。
天井板は薄く乗ったらばりばりと壊れてしまう。梁を歩く他はない。ネズミの足跡がたくさんついていた。
『屋根裏の散歩者』の面白さは、三郎の心理を一人称で書いているところであり、事件を解決する明智小五郎は、犯罪者が犯罪がばれてしまったときに陥る、茫然とした感じを描きたいがための設定である。妄想の変態から、ふとしたことで実行にうつし、それがばれてしまう心理を描いている。かなり面白い作品だと思う。
++
変態度をアピールするために、明智小五郎と郷田三郎が犯罪話をするシーンがあるが、そこに出てくる子どもを殺して養父のハンセン氏病を直そうとした、その実、養父を殺した野口男三郎や、小酒井不木が書いたウエブスター博士のこととかが、当時の猟奇流行を反映していて興味深い。
+++
妲妃のお百とか蠎蛇お由だとかいう毒婦の様な気分で…と郷田三郎がひとりごちする。妲妃のお百と蠎蛇お由は、三代目田之助が得意にした出し物で、現代では澤村宗十郎さんが国立劇場で、復活上演された。さらっとこのあたりを書く乱歩である。
毒婦は、悪婆ものと言われていて、悪婆とは役柄の名称で別に歳をとっている設定になっている訳ではない。美しい女形が汚れるというのが良いところで、当代で言えば玉三郎さんだろう。玉三郎さん実際にそうした自虐的な役で妖艶に煌めいて見せる。
宗十郎さんは、シェークスピアで言う阿呆の役ができる方で、大らかなユーモアの演技力は比類ないものだった。宗十郎さんの悪婆もまた素敵な演技で、悪さを感じない、それでいてどんどん逸脱していく破天荒さを出されていて、これまた澤村宗十郎ならではの芸だった。
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2008/05/28
『水晶の卵』H・G・ウェルズ 1987年
卵の向こうに火星が見える。
現在、火星では、探査機「フェニックス」が生命体の可能性を探している。火星に生命を見たい地球人の願望は、今にはじまったことではない。ヴィクトリア朝の19世紀末イギリスでも、火星に宇宙人を妄想した。
1897年にウェルズは、骨董商の店先にあった水晶の卵を通して、火星を見ていた。ちょうどスカイプを使って火星人と顔を合わせる感じだ。『水晶の卵』は『宇宙戦争』の1年前の作品である。
水晶の彼方に月が二つ見える。高いところから全部を眺めて見たい。そんなことを書いて、火星を感じさせる。
ウェルズはSF作家と言われているが、僕にはどちらかというと幻想的な作家のように思われる。火星が見えるというアイデアも素敵だが、夜な夜な卵形の水晶を覗き込んでは、天使のような姿が見えるなどいう、鉱物嗜好、そして鉱物の中に宇宙が拡がっているという幻想小説の原点のような感覚を好ましいと思う。文学としての筆致がありアイデア倒れしていないのがお気に入りだ。
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2008/05/28
兜
頭なんておこがましいからよ
兜なんだよ。尾頭つきなんていうじゃねぇか。だけどよ…。
いつのまにか『色川』さんも黙ってメニューにしてくれている。
今日は奥で宴会があるので、焼き鳥、肝、兜、2本ずつのフルセット。? いつもより黒い?
ううーん。焦げが鰻の油を吸った炭の薫りで香ばしい。美味しい。
江戸にいて良かったなとつくづく。
鎌倉文化人は浅草に通うのが好きだったらしいけど、30年前から浅草をうろうろして、今じゃこっちが長くなってしまった。三代住まないと江戸っ子じゃないらしいけど、間に合わないや。ここにいて江戸の空気を吸っていればそれでいい。
+
合羽橋の入り口にある生涯学習センターの図書館には、池波正太郎コーナーがあって、浅草が故郷だと言っている二天門前の姿が映っている。
++
子であるかどうかはともかく、ご飯の美味しい、そして気を使っていないような、それでいてなんとなく受け入れてくれている、この感じはとても好きだ。
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2008/05/28
『モロー博士の島』H・G・ウェルズ 1896年
モンスターもので好きなのは『フランケンシュタイン』と『ドラキュラ』そして
『モロー博士の島』(H・G・ウェルズ)だ。
書かれたのは1896年。ブラム・ストーカーが『ドラキュラ』を完成させる1年前のことである。この時代の作品はそれぞれに背景があって面白いが、背景にはダーウィンの進化論がある。主人公のプレンディックが、T・H・ハクスリー教授に生物学の講義を受けたと語るところは、まさにウェルズのそのままであり、ハクスリーは「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれたダーウィン進化論の論者であった。論争が好きでないダーウィンに代わって論争を一手に引き受けたのがハクスリーで、ウェルズは、彼に進化論をたたき込まれた。その進化論がウェルズの小説に色濃く影を落とす。
まさに影なのは、進化して素晴らしい人類ができるという方向ではなくて、人すら野獣に戻るかもしれないという進化論の退化可能性のほうに影響を受けているからだ。
+
ジョン・ハンターという名前も出てくる。ハンターは、18世紀の解剖学医であり、ここではキメラをや動物から人間を作るモローの技術的イメージの背景として使われている。
++
面白いのはモローによって一旦、進化した動物が、人間になって、また再び退化していくというところだ。ダーウィンの進化論は、神学に大きな打撃を与えたと同時に、退化もまたあるのだという恐怖である。物語は、モローの島からロンドンに帰った、プレンディックが、自分もまた野獣に退化するのではないかという怖れをもって、秘かに研究に生きるところで終わる。
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2008/05/27
『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』 石井輝男
『パノラマ島奇譚』のタイトルで映画やテレビドラマになっているものはあるのだろうか。
テレビドラマの明智小五郎シリーズで、原作を『パノラマ島綺譚』にしている『天国と地獄の美女』はある。あとは、石井輝男の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』が、『パノラマ島奇談』と『孤島の鬼』をベースにしている。大筋の原型は『パノラマ島奇談』からとっているが、あくまでも土方巽扮する、菰田丈五郎が、人工的に奇形を生み出し、自分の奇形を嫌悪した妻に復讐するという畸型譚になっている。
土方巽の海岸での踊りを観ていると、大野一雄に振り付けたような形も見え、脈々と暗黒舞踏を流れているものが何かということがひしひしと感じられる。芦川羊子の姿や、火と人間を同じようにしてぶん廻す白虎社の面々も踊っているし、島のシーンはとてつもなく懐かしい。この映画の前年、土方巽は『肉体の叛乱』を上演している、中で使われたシーンやセットが出てくるのが、ぐっとくる。踊っているところは、しっかりと踊っている舞踏手たちの若く、荒々しい見得が素晴らしい。
最後、ややそれまでのトーンとは異って、荒唐無稽に花火とともに薦田と千代の首や手が、宙を浮游するが、これは乱歩の『パノラマ島奇談』のラストからそのままもってきたイメージだ。
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2008/05/26
モナコGPを前に
電車の中吊りを見ていたら
ホンダの宣伝があって、四角い箱が、変化していくというような、どうでもよいようなCMだった。CMで判断しちゃいけないかもしれないけど、分るよ。この感じ。トヨタがエコを売りながら、F-1にでていくあの感じに近い。
ホンダもトヨタのような普通の自動車メーカーになってしまっている。なのにいつまでもレース・スピリットがあると、勘違いしてしまうのは止めたほうがよいんだろうな。
先日、福井社長が、琢磨は必要ない、だってバリチェロと代えてもポイントとれるかどうか分らないでしょ、日本人だからって乗せることはないよ。という発言だ。トップ争いをするような車に乗らないと腕は落ちていく。万が一そうでも、そりゃホンダのせいなんだからそれをいっちゃいけない。しかも今の段階ならバリチェロより琢磨の方が速いし、開発能力もある。
ルノーは琢磨が走れなくなって、ピケに取って代わるのではないかというパドックの噂に対して、琢磨を入れることに何のメリットがあるの? 日本は市場がないんだから意味ないよと発言している。嫌な言い方かもしれないが、こっちが本音に近くて、F-1らしい。走るのが遅くてもブラジル人ピケ。南米市場を見据えて。ブリアトーレはピケのマネージ料も欲しいし。
ホンダもそう言えばいい。南米市場が必要だからバリチェロなんだって。だから日本人にホンダの車をアピールしなくて良いと踏んだホンダの社長にちゃんとお礼をしなくっちゃ。ホンダ不買運動とかね。F-1やっているしまだまだトヨタよりレース・スピリットがありそうに見せてるから大丈夫だと思っているんだろう。
もうホンダはレース屋じゃないんだ。琢磨を放り出した時からそれは分っているのに、気持ちを引っ張っていた僕が悪い。時間が経つと原理は変わっていないのに忘れてしまう日本人の特質を利用して、アグリチームを作って適当にバッシングが消える時間稼ぎをしたんだと思う。ホンダは。
鈴木亜久理はある種、義理人情で日本の車に乗り続けた。でもだからこそ3位表彰台にあがれた。誰かが助けなければF-1では結果はでないのだ。亜久理は、自分がしてもらったことを実力ではじめてF-1に来たドライバーをなんとかすることで返したかったんだと思う。亜久理は、見かけによらず浪花節だから。
ドライバーの養成もしている亜久理にとって、琢磨で駄目ならどうしたら良いんだということになる。佐藤琢磨は、イギリスF3のチャンピオンで、マカオの優勝者で…セナやシューマッハクラスのキャリアでF-1に上がったのだから。キャリアを積んでも、実力があっても日本人は駄目という証明になってしまう。
未来を含めてホンダは琢磨というドライバーを活かせなかった。活かせないのは、ホンダという会社に、レースをするスピリットが足りないからだ。特に上層部にスピリットが足りない。ないのにやるのは失礼だ。本田宗一郎に。
中には中本さんのように情熱を持って、会社のやり方は違うよと言う人もいる。でもトップがその気じゃないと駄目なんだ。信長が比叡山を壊滅させようとしたときに、光秀が、良い坊主もいますと言って取りなそうとした。良い坊主が少しいるから却って駄目なんだ。腐っているのに、ほんの少し良いものがあるから、滅びず存続し続ける。その状態が最悪なんだと信長は言う。だから滅ぼすんだと。駄目な形で存続すると第二の琢磨がまた迷惑する。
モナコを最も速く走れ日本人であるはずの佐藤琢磨は、走ることのできないモナコのサーッキットに姿を現した。
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2008/05/25
夜に蠢く
自転車を使わないとまた視点が変わる。
意識しないで見ているが、写真になったものを見ると分る。でも意識しないで見ているものが、とても多いことに気づく。
写真展を見て、別の、写真展を思いだした。
並びの悪さを思う。写真を撮ることと、写真を展示することはだいぶ違うんだな。
頭の中でその写真の写真集を思いだした。繰ってみる。
ページネーションが巧くない。めくって見ていく写真集はまた別の文法をベースにしている。
他から見ているとぱっと分るものの、自分が撮ったという視点をもっただけで、見えなくなる、把握できなくなるものだ。自分の写真の方向とか、何の意識かなんて分らないもの。
光って綺麗なものだけに反応しているのかもしれないし。
最近、興味があるのは、人の悪意がどこまで悪意で、どこから無意識で、その無意識がどうして形成されたかということだ。昔は、悪意は自分の周りにあまりなかった。今はけっこう多くて、悪意同志がごつん、ごつんとぶつかって、その跳ねた欠片があたったりする。
そんなことを思いながら、延々、雨の夜を歩いていくと、闇の中に気持ちが沈んでいく。そして溶けていく。
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2008/05/24
光が急に
ベランダの光が急に夏の気配を帯びた。
僕は自転車という足を奪われたまま夏の日に立つ。浅草のあたりは祭りの余韻もなく、こうして時代が崩れていくことにも無頓着に明るい。立場がどうしたとか、あの人が私を貶めようとしているとか、毀誉褒貶、それは生きていることとイコールなんだろうけど、それは胃に炎症を作らされるだけで、前に、何も進まない。
ポジティブに考える、そのことが何かを生むのだ分らせてくれた本と行為があって、僕はふと立ち止まる。
計画をきちんと立てて、考えて、それで出きあがる伽藍の良さを改めて知る。
僕はそういう風にできないけれど、そしてそれが特色でないけれど
そう言い訳をしないでみるべきこと、やるべきこともまたあるだろう。
風をもう一つ吹かせたい。
風を浴びてもう一歩拡がりたい。
自転車!!
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2008/05/22
ストレス
ストレスで胃炎。
今日はお休み。
ストレスがたまると言われて、言われ続けたこちらが、ストレスになる。
いつのことだろう。何か記憶のなかにあるような…。
いつの間にかやられている私。
細かいディテールから入った、執着は、強いアディクションになって行動を規定する。
この流れに入ると自動装置が起動してなかなか抜けることはできない。
記憶の中に体験が残っている。
どうしたらこの網を解けるか。もしかしたらずっと考えていたのかもしれない。去年の6月から。
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2008/05/22
境耘閣 きょううんかく
モツ煮込み辛子鍋
四川風麻婆豆腐を鍋にした感じ。美味しい。山椒もたっぷり。春雨と白菜がなかに仕込まれている。モツも匂いなしでふわふわしている。作るのに30分。
ここは餃子も美味しい。値段が安い。量が多い。素敵だ!!
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2008/05/22
『アルンハイムの地所』『ランダーの別荘』 エドガー・アラン・ポー
谷崎潤一郎『金色の死』江戸川乱歩『パノラマ島奇談』に大きな影響を与えたと言われている
というか、翻案のネタ元である、ポーの『アルンハイムの地所』『ランダーの別荘』は、これまた非常に面白い位置取りをしている著作で、イギリスのゴシック小説が、アメリカに入るとこうなるのか、という典型であり、ポーを通じて、ハリウッドはゴシック・ロマンスをゴシック・ホラーに変化させていったのだ。
ゴシック小説の『ヴァセック』(ベックフォード)からインスパイアーされていて、特にべックフォードが建てたゴシック建築をモチーフに、それを風景として、庭園として描いたものである。
人口の庭園が完全なのだ、自然はどこか不具合がある。
自然は完全ではない、配置された絵のような自然こそ完全だ。という思想によって書かれている。
『金色の死』谷崎潤一郎の翻案は、金持ちの男が、理想の庭園を造ったという構造だけで、金にあかせて作り上げた庭も、その金にあかせる理由も感覚も異る。
そのずれていく様が、面白いし、翻案したり、インパイアーされながら文学や映画が形成されていったか良く分る。
このずれから時代を覗き込めるのだ。
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2008/05/22
ハトヤ
都営浅草線蔵前の地下鉄駅の中
中といっても地上入口から降りていって、途中の踊り場にある喫茶店『ハトヤ』
昭和37年の創業…。たしか…。
えっとケチャップのスパゲッティ。
コーヒーは300円。サイフォン。
仕事帰り風な(もしかしたら装っているだけ?)人がカウンターの止まり木に。
お、もうすぐだ。と、帰る地下鉄の時間を決めていて、それに合わせてコーヒーを飲んで、くつろいでいる。
浅草にあるアロムもそんな感じのコーヒー屋さん。
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2008/05/21
自転車
疾走感を楽しんでいたら
また後輪のタイヤがスローパンクチャーした。ぐにっとタイヤを取られて転倒寸前。
僕の乗っているのは古い自転車。1980年代に作られたBRIDGESTONE アルミフレーム ロードレーサー RADAC。
20年以上前のマシン。言うと良く盗られなかったねと。
買ったのはhakusenという上野にある60年の営業を誇る(HPで誇っている)自転車。浅草の店でつい最近、チューブを全取っ換えしたばかりなので、ちょっと嫌って、買った店までずるずる引きづっていった。
修理はしないよ。と、軽く言われる。うちで買った自転車じゃないと…。あ、20年くらい前ですけど、まだお店のマークも付いてますけどと言うと、しぶしぶ引き受けてくれた。うちなんかもうパンク修理なんかしないで、全部取り換えるからね。チューブもタイヤも。これ大分すり減ってるね。タイヤもまだ1年たってないんですけどね…。それで一週間かかるけどどーする…と腕組み状態。また引きづってかえるのもしんどいので、お願いしますと自転車を置いた。
同じタイプで新しいの買うとしたら、どんなの推薦してくれます? 今、中国で資材を押さえられているので、自転車手に入んないよ。予約して6ヶ月待ちかな。とけんもほろろ。しかも自転車は流行でバブル状態らしい。
HPを見ると、ママチャリじゃないカッコよい自転車で町を埋めたいと書いてあるけど、メンテナンスが快くないと、結局、メンテをしないでのるママチャリ系になるんじゃないの? 日本ってどうしてバブルになるとこんな感じになるんだろう。
浅草の『フラミンゴ』でエスプレッソ。晴れているのに自転車に乗っていないのは久しぶり。何か変な感じ。店の片隅に置いてあるフラミンゴ色と深いローズ色の二台の自転車。ずっと気になっていた。DE ROSAのバイク。うーん。素敵だな…。
どこで買ったのか聞いてみると意外と近いところに店はある。値段を聞いたらちょっとびっくり。まぁ当然なんだけどね。
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2008/05/20
祭りの夜に
信じられるものは夜の昏さだけだ。
最近見た芝居にそんな台詞が出てきた。
浅草観音は大川の網にかかった観音様。だから祭りに水はつきもので良く雨が降る。
にしても颱風とは…。
文扇堂の柳もたっぷりと雨を含んでいる。
仲見世は灯を消して誰もいない。
まだ深夜すこし過ぎだというのに。
寂しい祭りが終わった。
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2008/05/20
『浅草十二階』 細馬 宏通
裸眼の3Dにはまっていたことがあって
たしか3D協会…名称はたしかじゃないけど…の一桁番号の会員だった。
そのときに教わったので交差も平行もできる。
『ステレオ -感覚のメディア史』-吉村信、細馬宏通 編著という本も出版した。
その細馬 宏通さんの著作。細馬さん元々はエレベーターの中の認知問題を研究していた人。
そしてもちろん3Dも詳しいし、実践者。浅草十二階のエレベーターにもこだわって書かれている。そして真骨頂はパノラマについて。思想としての、大きな意味での象徴としてのパノラマよりも、パノラマを前にして視覚がどう変化して、立体に見えるのか…そしてそれを見たひとがどう記述してきたのか、そして人々にとって浅草十二階がどんな存在だったのかということを見ている。
パリのポンピドゥー・センターは、観光客と市民には展望台の役割も果たしている。凱旋門もエッフェル塔も見える。あとは低くて(ポンピドゥー・センターから見たら)高さの揃った町並みがずーっと続いている。パリは建物規制が今もされていて、高い建物は歴史的建造物。おそらくポンピドゥー・センターだけは大統領特権かなにかで、高さ制限を受けなかったんだろう。その風景は独特だ。ナダールも気球で飛んだときにそんな風に見えたのだろうか?
塔は高さによってそれに相応しい覗き方がある。肉眼と双眼鏡が微妙にクロスする浅草十二階。それでこその風景を細馬宏通は、浮かび上がらせる。覗く人たちも。吉原を、階下の女たちを覗く人たちを。
最近、僕が良く書いている、十二階下の娼婦が、塔の上から覗く女を逆に見上げるという視線を描いた、上村一夫の『菊坂ホテル』のユニークさと、下からという視点を描けた上村一夫のフェミニズムが、やはり珍しいものであることが分る。
風景を書き、覗いたイメージを書く作家たちの中で、石川啄木だけが馴染めず、地をはってもがき続ける。そして階下の女たちのもとへかよう。鮮やかに浮かび上がる、作家たちの生き様と、それを顕しているまなざしだ。
+
江戸川乱歩は自らの日記、『探偵小説四十年史』の中で12階に登ってアイデアを得て『屋根裏の散歩者』を書いたと言っている。
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2008/05/20
かんざし
柳橋のビスから裏を通って、ガードを潜り、柳橋を渡り、直角に曲がるとすぐ両国橋。
両国橋を渡って川の向こうに行く。
風を孕みながら走るこのコースが最近ちょっとお気に入り。
柳橋には簪がある。
ライトアップもされている。
川遊びの屋形船が舫われている。
江戸時代、お大尽は柳橋から猪牙舟で隅田川を上り、山谷堀から土手を通って吉原に通った。
おそらくその猪牙舟は柳橋あたりから出たのだろう。柳橋芸者は、色を売らず芸を売っていた。ゆえにそこから吉原へ繰りだしたのだ。
今、もう花街も料亭もない。近くにある『ルーサイトギャラリー』のオーナーは元料亭『稲垣』のお嬢さん、祖父が柳橋の川開きを始めた人だ。
ギャラリーに余裕が出たら、お茶会を催したりもしようかな。
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2008/05/20
三社祭
宮出しが無くなってしまった今年の三社祭
表は賑わっているが、浅草の芯の部分は閑散としている。
景気付けに今半の弁当を買って食べてみる。
そっちの方の人を完全に押さえ込もうとしているのだろうけど、観光客にのみ向いている三社祭もなんだか寂しい。
というかまずいでしょうそれじゃ。
観光客は見かけの浅草みやげ、そして新興のライトミールのお店ばかりに向う。
こんなんでいいのかなぁ。
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2008/05/19
『探偵小説40年』江戸川乱歩 1954年
『探偵小説40年』は江戸川乱歩の自伝に近いものである。
作家としてデューする前にこんなことを書いている。
私はこの小説がポーの『アルンハイムの地所』や『ランドアの屋敷』の着想に酷似していることにすぐに気づき、ああ日本にもこういう作家がいたのか、これなら日本の小説だって好きになれるぞと、殆んど狂気したのであった。
この小説とは、谷崎潤一郎の『金色の死』である。世の中的には『金色の死』を使って『パノラマ島奇談』を書いたと言われている。谷崎潤一郎でもポーを下敷きにするのだから、自分ならもっと…と思ったのだろうか。そういう面もかなりあると思うが、むしろ自然主義全盛の中で、谷崎が幻想的な作品をポーに倣って書いたということに勇気づけられたのではないだろうか。
筋を流用するというのは、谷崎潤一郎がやる、やらないかかわらず普通に行われていたことなのだろう。乱歩は『探偵小説40年』にこうも書いている。
ポーの短編のうちで、前々から使って見たいと思っていた筋が二つある。一つは『ポップ・フロッグ』もう一つは『スフィンクス』である。『スフィンクス』はいまだに扱いかねているけれども、『ポップ・フロッグ』の方は即ち『踊る一寸法師』である。翻案とか真似というには、少し離れすぎているが…
翻案とか真似ならもう少し似ていないと…と言外に言っている。大正14年の頃の小説は、海外有名小説の筋や設定をそのまま使うことは普通のことで隠すことでもなんでもなかったのだ。それは大文豪と言われている谷崎潤一郎にしてもそうであるし、世の中的にもそれが常識だったのだ。日本の小説はそこをベースに発展してきていると言って良い。オリジナルという感覚が薄い国なのだろうな。
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2008/05/18
白蝋変化 横溝正史全集2
『鑞人』
蔵の中で鑞人となった今朝次を愛撫する盲目の芸妓珊瑚。この耽美、デカダンスは類を見ない。
ちょっと話しはそれるが、長谷川時雨は、鏡花の『日本橋』に田舎もので日本橋を知らないと公言した。たしかに日本橋生まれの時雨にとって、鏡花の描く日本橋・花柳界はそぐわないものだったかもしれない。潔癖症だった鏡花が粋な遊びをしたはずもなく、神楽坂の芸妓を妻にしたといっても、それが花柳界というものを体感できたかどうかは分らない。日本橋に出てくる唄でもちょっと気になるところはある。
もちろんそのことと鏡花の文学としての『日本橋』が面白いということは別である。『天守物語』などの荒唐無稽さに現実性が欠けているというのと変わらないからだ。鏡花にしてもなかなか、芸者と旦那の関係をままに描けないものだし、そこに間夫が出てくれば、典型的な物語になってしまいそうだ。歌舞伎にもあるし。が、横溝正史は、旦那が金と嫉妬を振り回す異常さを妙にリアルに描いていて、実際、こんな感覚で旦那は妻にした芸妓と付き合っているんだろうなと思う。そのリアルな感じ、自然主義的な描写を起点に、蝋人形の形代を盲目になった珊瑚が愛するという、不可思議さへ一気に向っていく様が良い。
こね繰り回さない最後もすらっとしていて美的である。