pickup

rss

    news

  • editor's talk

editors talk

2008/01/16

終われない闇

DSC03365.jpg
ヴァンパイア展のパート1が終了したが終われないという感覚が自分を支配している。

ヴァンパイア展が終われないという感じではなく、森村泰昌がここに至って使命感のような感覚に追い立てられるようにフロントラインへ出ていく、というのに少し似ているかもしれない。いくつものトラップをかけられて闇に堕ちた。トラップはおそらく一人を狙ったものなのだろうが、それが一人にとどまらず全体を貶していくということを意識していない。貶めるのは自分でもあるのにそれが分らない。堕ちた闇の中で蠢くのは楽しくて良いのかもしれないが、この時期にそれはまずいのでは…と、思っている人たちがいる。たぶん森村泰昌もその一人だろう。情緒や哀しみを享受するDNAコードを何故にか喪失して見えなくなってしまったものがある。それは自分のコード喪失なのだが、見えないならないということでしょう、情緒やディテールのアンジュレーションなんて関係ないでしょう、それは高踏派の幻想にしか過ぎないよと、単一の感覚に決め込んで楽をしようとする。闇はさらに深くなる。単純なはずなのにトラップは複雑怪奇なものをしかける。自分にも引っ掛かってくるのに。感覚の良いアンジュレーションは実は単純な快楽でできているので、静かに眺めているとすっと身体に入ってくる。闇と享楽の差は大きい。コードを喪失して分岐したのだからもしかしたら戻るのは難しいのかもしれない。それはそれで仕方がない。だが相手を否定してはいけない。自分の後ろめたさを肯定するために。

go to top

editors talk

2008/01/15

トークショウ 石田一+菊地秀行

石田一さんと菊地秀行さんの吸血鬼トーク。吸血鬼ものはクリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』(1957)につきると。山本タカトさんもhttp://www.gei-shin.co.jp/comunity/07/index.htmlで、リーのドラキュラにはじまって、今もそしてこれからも吸血鬼は、自分とともにあると書いている。


クリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』(1957)の衝撃は、良く分る。しかしこれほどまでに影響力が強いとは思っても見なかった。どうしてか?という深いところでの感覚的理由を知りたいと思った。

go to top

editors talk

2008/01/14

石田一 丸尾末広

DSC03305.jpg
自分に言いきかせて忘れないようにしようと思っていることがあって、現場の正解、地べたの感覚がまず第一で、そこから雑誌を作るということ。その現場での体験とずれない見方で、映画や本や作品を見ること。それは観客の立場とも違うし、作家達の立場とも違う。

今日は、石田一さんと丸尾末弘さんの対談だったが、一番、リアルに感じたのは、「体験」についてだった。若い頃に、吸血鬼でもどの映画に感動したか、心動かされたかということがあとの見方を大きく左右するということだ。理屈が動く以前に心が動いたものが何だったかということだ。僕の場合、映画体験は、「昨年マリエンバート」「欲望」という映画で、自主上映会やそれに近い形での上映を探して見て歩いたのが原点だ。

石田さん丸尾さんは、怖い映画、とくにハマーの映画に擦り付けられたようだ。たぶん今日、対談に来てくれる菊地秀行さんも、来月来てくれる黒沢清さんもそうだろう。吸血鬼映画体験が、基本的にクリストファー・リーとピーター・カッシングからというのはなかなか興味深いことだ。この体験を共有する人たちは意外と多いのではないだろうか。そしてクリエイターの人たちに。とすると、何かの変化は確実に起きているという風に直感する。

そして夜想のヴァンパイア特集が、ハマー以前に遡っていったというのもちょっと意味がある行為かもしれないと思う。今日の対談の先には、考えることがたくさん在る。イギリスで成人指定だったハマーの映画を、日本の子供たちが盗み見ながら、育ったのだ。

go to top

editors talk

2008/01/14

トークショウ 丸尾末広+石田一

トークショウは面白かった。僕自身にも。
いろいろ考えが進んでいく、話している間に。映画は時代を写す鏡でもある。


石田さんは筋金入りの映画好き、ハマー好き、吸血鬼好き。好きだからこそいろいろ集める。好きなものだけ集める。bisに展示して在るライフマスクも、例えば、この映画を撮った時のメイクのためのマスク…そこからのライフマスク。単に顔を集めている訳ではない。うーん、いいなぁ。


DSC03335.jpg

トークショウに間に合って、丸尾末広「ヴァンパイア・パノラマ」ができ上がった。大判吸血鬼カード6点と70センチを超える吸血鬼パノラマのセット。絵はがきと、吸血鬼の絵はがき立てのセットになっている。会場のみの販売。


go to top

editors talk

2008/01/13

『癩王のテラス』 三島由紀夫

DSC03360.jpg
手紙がとどきました。

蝉の声がサイレンのように高いトーンで鳴り続けていてアンコール・トムを離れて日本に帰ってきた今もじんじんと熱をもっています。向こうから頼りをすればよかったのですが、黴と巨大な石の廃虚にただただ茫然としてあっというまに1週間がたって日本にもどってきてしまいました。

私のなかの『癩王のテラス』が一気に押しつぶされてしまいそうな哀しさを覚えたからです。不思議な日本語を操る少年のようなガイドを選んだのが間違いだったかもしれません。姿とは裏腹に暑いからと日蔭ばかりを歩き、やすんでは煙草をすう投げやりな態度に、精神に脂肪のついた中年男を見ました。怒るのも忘れてあきれ果て、すたすたと歩き出したのは良いのですが、道に迷い、結局どこがテラスだったのか分らなくなってしまいました。内戦でかなり荒れ果てた風景からは、黄金の仏像も癩王が立ったテラスの残照もなく、蝉の高いトーンだけが私に残された唯一のものとなって残りました。少年が胸に蝉を入れている話を昨日、教えてもらいましたが、胸に蝉を入れると、石の墓標の上を飛べるのですね。
この甲高い蝉の声には何か魔力がありましょうか。癩王も絶望の中にこの蝉の声を聞いていたのでしょうか。目も見えなくなった癩王は蝉の声の向こうに転生する来世を見たのでしょうか。癩王は来世を信じて絶望などしていなかったのでしょうか。私にはまだ分りません。手の中でヘッドが形を見せてくる頃に何かが見えてくるかもしれません。

go to top

editors talk

2008/01/13

『ドラキュラ血の味』(1970ハマー) 

DSC03361.jpg

ドラキュラの物語が、顴骨堕胎されている代わりに、ハマー・フィルムのドラキュラシリーズには、ヴィクトリアン朝の風俗がかなり描き込まれている。



メイド姿やクリノリンスタイルの衣裳、そしてロンドンの町並み、貧乏な子供たち、そしてヴィクトリアン朝の男の建前の厳格さと裏で娼婦の館にかよってしまうような猥褻さが描かれている。デートをして家に帰ると、不気味な男の影。ドラキュラ登場かと思うと、父親だった。父親は、娘を襲うようにして説教をする。そこには妖しいセクシャルなドグマが漂っている。アリス(娘)私の鞭を受けろ、といって迫る父親には、サディスティックなハラスメントがある。これは、まさにヴィクトリアン感覚で、原作の『ドラキュラ』からは遠くなっている物語が、意外なところにリアリティがある。この映画が描かれた1970年のちょうど100年前がヴィクトリアン朝になる。ちょっとした時代劇の要素もあるのかもしれない。

go to top

editors talk

2008/01/11

『ハライソ 笑う吸血鬼2』 丸尾末広

DSC02821.jpg

ハライソを読んだら、夢を見た。部屋中に蝉がとまっていた。大きいのやら小さいのやら、びっしりとまっていた。身体が震えているので啼いているのだろうけど、声はしない。障子から月の光が射していた。


外には浮游して高い梢からこちらを見下ろしている少年がいるのだろうか。
袋状の仮面を被っている少年が這いずりながら近づいてくる気配がする。

そこで僕は目が醒めた。耿之介少年の、白いシャツの胸のポケットに忍ばせた蝉が啼く。『ハライソ』のシーンが脳裏に焼き付いたからだろう。

決して大人にならない少年と少女。吸血鬼だからではなく、丸尾末広の少年は永遠に少年であるのだ。老人の変態性を兼ね備えていても。読む度に夢魔が甦る。幼いころ鎌倉で育った記憶の中の、そして浅草に漂っていた饐えたような空気の臭いが。
少年と少女たちの吸血譚。

go to top

editors talk

2008/01/09

恋月姫 

08-01-09_16-15.jpg

岩塩のカタコンベの中は思ったよりも涼しく、血を吸われたばかりの少女や少年は
息吹を失った時のまま。

写真集や展覧会の企画が少しずつ前へ。

yasoは恋月姫さんと出会って人形への思いを深化させた。そしてコンセプト・ドールを付帯した特装本yasoを作り、展覧会をいくつもいくつも一緒した。その特装本のなかに入っていた特装本のap版がビスのショップに置いてある。中身はyasoのドールだが美麗な表紙に変わっている。その特装本に恋月姫さんのサインを入れてもらった。

go to top

editors talk

2008/01/09

吸血鬼 三浦悦子

DSC03276.jpg ¥100,000

bisの会場に入ると何やら気配がする吸血鬼の花嫁の隣に吸血鬼の首が置かれていた。三浦悦子さんが新作を届けてくれたのだ。
何やら鬼の風もあり、しっかりと顔がこちらを見ている。

三浦悦子さんの人形は、展覧会を境に微妙に変化した。表層と内面のバランスが一定ではなくなってきている。作家の普通なら問題かもしれないが、三浦さんの三体の吸血鬼テーマの人形を見ていると、それぞれに変わっていることが、吸血鬼であったり、吸血された花嫁であったりと感覚の変化なっているので、良いのではないか思う。


go to top

editors talk

2008/01/09

笑う吸血鬼(2000) yasoヴァンパイア+

DSC02851.jpg
『笑う吸血鬼』丸尾末広 

目玉を舐める
飴屋法水のグランギニョールの芝居では、役者がそのシーンを再現した。

目玉って、好きっていう感情で舐めれるものなのか…。ちょっと衝撃だった。
丸尾のイメージには破格のものがある。『笑う吸血鬼』では舌を切って吸血鬼の交わりをする。そこかな。

昭和初期の匂いが仄かにする。エレファントマンのマスクに、むしろ江戸川乱歩におびえた、横溝正史におののいた
昭和の子供たちの腐った町のアンダーグランドを感じる。
ここまま平成の少年たちが起す殺戮の現実を思わせるが、毛抜の差で丸尾末広は絵空事だ。そこが耽美でとてつもない。
少年は殺意を煽られるのではなく、煽られて火照った裸体の身体をベッドに横たえて悶えるのだ。妄想のなかで。

写し取られた谷中銀座や屍体の絡まっている不忍池の蓮の根や上野公園の片隅にある奏楽堂が
その現実の方が絵空事になる幻想を丸尾末広はもっている。そこにある現実だから妄想は限りなく闇を抱く。
風景こそむしろ事件なのだ。吸血の。

go to top

editors talk

2008/01/08

『モンスター・ムービー』 石田一


メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』 フランケンシュタインと怪物の話
何故、男の怪物ではなく女の怪物を作らなかったのか…とは石田一らしい設問。答えは本の中にあるが、僕は別の答えを考えている。
メアリー・シェリーを座右の一冊にしている女性作家は多い。

理由にはいろいだろうが、いろいろすぎて深い闇すら感じる。
ヴィクトリアン朝の時代を生きた女性の姿が映されている。
『ドラキュラ』には男性から見たヴィクトリアン朝の男と女の姿がある。

バイロンは奔放な作家としてヨーロッパ中に知れわたっていた。
ポリドリの『ルスヴァン卿』のモデルとして。
そのグループにいてメアリーの思っていたことは…。
ケン・ラッセルの『ゴシック』にその風景が少し出てくる。
『ドラキュラ』『フランケンシュタイン』も創生にして今も現役だ。というか越えることができないなにかがある。それだけの作品は、逆の使われ方をする。怪物は本の紙を出て独り歩きをするのだ。だから派生していくモンスターたちは必然元の闇が隠されていてコピーされていく。映画も小説もその視点から見ると、また別の楽しみがある。それを教えてくれたのは本としての丹治愛だ。

一方、石田一さんはハマー、モンスター、ホラー、SFの映画通にしてコレクターで、菊地秀行さんとともにコレクター、筋金入りのオタクだ。何より凄いのは、映画の怪物たちを怖れ、おののき、そして愛してきたことだ。石田一さんのポスターのコレクションは未曾有のもので、本はポスタを見るだけでも意味がある。ほんの一部を借りてきてbisにも展示しています。
『モンスター・ムービー』にはポスターやスチールが満載で、ポスターを見ていると製作の裏や係わった人たちの情熱が感じられる。スチールは、映画のシーンにはないポーズだったりもするが、それがまたこたえられない面白さだ。


go to top

editors talk

2008/01/05

蝕が訪れる季節に

DSC03205.jpg

パワープレイでしか抜けていけない季節がある。
実は今もパワープレイが全盛のときかもしれない。

ただし今、時代が違うと思うのは、パワーがインナーなところで使われるというころだ。
それは自分でも意識していないことが多い。
だから効果もある。一見すると。(本当はそんなことはなくて自分に返ってくるんだと思うが)

インナーな
パワーは一定の量が溜まり臨界点を超えると
爆発する。
外にでてしまうのだ。
間違えるようにして出た目標のないパワーはオーバーフロウして磁場を狂わす。

そのとき蝕が訪れる。

だれも望んでいないのに。

その蝕すら払うパワーがあるならそれを自分のものにしたい。

go to top

editors talk

2008/01/01

『少女写真館』 飯沢耕太郎


集めた少女写真が、飯沢耕太郎の収集した絵はがきが中心なので、無難なエロスにとどまっている。同じヴィクトリアン期でも高橋康成の『ビクトリア朝のアリスたち』には、少女娼婦や見るからに危ない少女ヌードが収集されている。写真は見せるものではなく秘かに保持された。だから密室の、被写体と撮影者の関係が妖しく残っている。絵はがきになると社会通念が反映される。ものたりないのはあたりまえだろう。

巻末の対談が面白い。本音を言わない飯沢耕太郎と、突っ込む伊藤 比呂美。そこでは少女についての男性からと女性からの視点がまったく絡み合わず展開している。その対立点を一つずつ検討していくと、欲望の発露に不自由になっている困惑する男性の姿が浮き彫りになってくる。それは飯沢耕太郎という男ではなく、時代に生きている男性としての不自由さだ。それは良いとか悪いとかの問題ではなく、そうなってしまって語られなくなってしまっていることの問題の方が大きい。


go to top

editors talk

2007/12/31

『幻想小品集』 嶽本野ばら  

07-12-31_00-131.jpg

ドライフラワーにしていた3年前の薔薇の葉が全部おちて、
薔薇の杖ができたとメールがとどいた。薔薇の杖か…。

『幻想小品集』 嶽本野ばら フェティッシュ+

ゴスロリは、次第に分化をとげている。甘ロリ、ロリ・パンクとか。
そして思うのは、本家のゴスロリも変化するのではと思う。

変化というのではないかもしれない。
ゴスロリというファッションのもとに隠していた別の本性を顕にするというころだ。

嶽本野ばらの作品にも変化が見られる。『幻想小品集』にそれが如実にあらわれている。小説がゴスロリの変化を助長するのか、それとも変化を反映したものなのか今は、判断がつかない。

嶽本野ばらは『幻想小品集』でフェティッシュを+した。フェティッシュは、ゴシックがゴスになったように昔のフェティッシュとは大分異る。もちろん嶽本野ばらのフェティッシュはゴスロリのすぐ側で変化をとげた方のフェティッシュだ。フェティッシュのエクスタシー。麻痺と覚醒がテーマとして描かれている。

形式は幻想小説だが、その幻想小説のテーマや形態もまた泉鏡花や澁澤龍彦とは異っている。幻想文学で、嶽本野ばらが踏襲しているのは、体験が重要で、体験からいかにジャンプをかけるかという作家の書く態度である。多くの幻想文学の作家が、そうではないと言うのと同じように、嶽本野ばらは言うかもしれないが、体験と現実が重要だ。

だから薬…という結論にはならない。嶽本野ばらは、ドラッグの作法をフェティッシュに描いている。どんなドラッグを、どんな風にというようなドラッグのフェティッシュなのだ。飲んで酔っぱらって書く幻想じゃない。もちろんそんな幻想の作家は存在しないが。ドラッグフェチとしての幻想小説だ。

この小説には睡眠導入剤などのドラッグの話がでてくる。yasoの前身の2マイナスが詳細な特集を出している。今は、所持もおそらく記述もまずいだろう合法ドラッグや睡眠導入剤などの詳細が特集されている。
『幻想小品集』には、夜想『耽美』に掲載された作品も収録されている。

go to top

editors talk

2007/12/31

『アラジンと魔法のお買物』嶽本野ばら


DSC03249.jpg

『アラジンと魔法のお買物』 嶽本野ばら  yaso耽美+
エルベ・ギベールが友人とのプライベートなやり取りを含めて
暴露しながら小説にしたように
ソフィー・カルがストーキングした写真を作品にするように
(そして面白いのはその二人が京都であっていた)
嶽本野ばらはBaby, the Stars Shine Brightを着るために『下妻物語』を書く。
いや正確な言い方ではない、Baby, the Stars Shine Brighを着て書くのだ。
嶽本野ばらはあとがきで小説を書くために買うといっているが
そうではないだろう。

『アラジンと魔法のお買物』に書かれている買物は作品と同じレベルで存在している。
もしかしたら物が優先しているだろう。

面白いのは『アラジンと魔法のお買物』に出てくるおかいものが宮下マキ『short hope』に写っていることだ。
『short hope』は嶽本野ばらを撮った写真集と言われているが同じく嶽本野ばらのものも写っている。
写っているのは嶽本野ばらの小説そのものである嶽本野ばらのものが写っているのだ。
美しい転倒。幻想の転倒。


go to top

editors talk

2007/12/29

中国茶

DSC03206.jpg

他のお茶を飲んで始めて自分に宿った感覚が分った。
中国茶を作法どうりに入れてもらって口にした瞬間
入れた人の手の感じ、お茶に対する感じがすっと感じた。

お茶の入れ方は人それぞれ 僕のお茶の師匠はラフっと入れる。師匠は星川京児さん。他人の入れ方を見ていると違和感が在るほど、僕は星川流に慣れている。良かったなと思う。僕はラフなところでチューニングを合わせるのが好き。それでも強いお茶を14せんとかまでゆっくりと変化を楽しみながら入れていく。1せんずつ味が異るのでお茶は面白い。その1せんずつの味の違いがわかるのようにしてくれたのも星川さんだ。あーせー、こーせーというのは一切言わず、質問に答えてくれるだけだけど。それがいい感じに手を延ばしてくれた。

お茶にはゴット・ハンドとデビル・ハンドがあって、どんなベテランの人でも巧く入れられるとは限らなくて、どうしてもお茶が美味しくなくなってしまう手があるらしい。それは薄々自分も知っていて、なんか悲しいと言う人がいると…。余り上手でなくても美味しく入る人がいる。お茶の舌は、お茶を言える経験で繊細になる。それもどう教わって、どう入れていくかということによる。

いろいろな感覚に蝕が訪れている中、感覚が繊細になっていくものがあるのは嬉しいことだ。感じることができる、把握することができるのは、快感であるし、今、生きてて良かったな思うことでもある。

星川京児さんは民族音楽のプロデューサーで、酒飲みで、お茶飲で、グルメで、散歩人だ。

go to top

editors talk

2007/12/29

『ベルセルク』14 三浦健太郎 yasoヴァンパイア+

吸血鬼はスラブの民間俗説があり
バイロンの名を騙った『吸血鬼』があって舞台へ展開し
ストーカー『ドラキュラ』がある。

yaso本紙にも繰り返し書かれているように
ストーカーの『ドラキュラ』は15世紀ルーマニア地方、ワラキア国のヴラド3世をモデルにしている。
ドラクルという別称をもっていた。ドラキュラはそこから来ている。

ヴラドには吸血鬼の噂も事実もない。ただ幽閉された時代のトルコ軍の風習を逆手にとって敵兵を串刺しにして晒したということはある。
少ない軍勢でトルコ軍を西欧世界に入れないように戦っていた、ある種の英雄である。
非常に興味深い武将であるので、もっとたくさんの映画や小説があっても良いと思う。できればストーカーの『ドラキュラ』と切り離して単独で描いてもらいたい。

『ベルセルク』を読んでいてヴラドに似ているなと思っていたが、14巻の巻末に原型となる三浦健太郎19歳のときの作品が収録されていて、ここにブラド大公が登場する。ベルセルクはそのブラド大公に敵対するのだが、ヴラドの影はベルセルクに少なからず影響を及ぼしている。
『ベルセルク』には妖怪がたくさん出てくるが、当時のワラキア地方にも妖怪が跋扈していたかもしれない。少なくてもヨーロッパの人たちは、辺境の地方にそんなイメージを持っていたに違いない。その妄想がストーカーの『ドラキュラ』を世界標準の原型にしたてあげたのだろう。

go to top

editors talk

2007/12/28

アドルフに告ぐ Aufuf au Adolf(Studio Life)

DSC03036.jpg

Aufuf au Adolf アドルフに告ぐ(Studio Life)
+++++

役者たちのストレート・プレイも良いし
手塚治の『アドルフに告ぐ』を解釈しきっている倉田淳の脚本・台本も良いし
2時間50分あっという間だった。

日本からドイツを見るとき
パレスチナを見るとき
この手法しかないし、正直な方法だと思った。
それは挑戦心溢れる一生を送った手塚治の気概であり
またそれを感じ取った倉田淳の姿勢だ。

ヒットラーが歴史となってしまっている
今こそ
表現ができる
今こそ
表現しなくてはならない
そんなことを感じる。

青年だけで結成されているStudio Lifeは
耽美な作品を上演していることもあり
あるジャンルに分類されていると思うが
今どきの言葉で言えば
普通に面白いということをもっといろいろな人に知ってもらいたい。

物語の流れや主張をしっかりと
舞台に乗せていて
役者たちも物語を表現するために演技している。


yasoヴァンパイア特集に
☆倉田淳withスタジオ・ライフ「ここにも孤独なひとがいる」
というインタビューが掲載されている。

go to top

editors talk

2007/12/28

『blood the last vampire』(2000)   yasoヴァンパイア+

DSC03006.jpg

blood the last vampire(2000)
☆☆☆☆

1966年 ベトナム戦争中の日本。
銀座線の浅草駅がリアルに描かれる。地上から電源をとっていた旧銀座線の車両はカーブで社内の電灯が一瞬消える。
車両に乗っていた小夜が日本刀でヴァンパイアらしき男を殺戮する。

ヴァンパイアのモチーフをこなしていない日本の映画にあって


ヴァンパイア譚としてオリジナル度が高い。

小夜の都合をもう少し分らせても良いかと思うが
刀でヴァンパイアを刈るところ
鬼…という言葉がでてくるところ
小夜が左利きというところ
オリジナルのセッティングで
ここから何かが生まれるほどのポテンシャルをもっている。

横田基地の娼婦たちのありようが
切り裂きジャックのモチーフを日本に写してきた感じで
導入としてドラキュラ成立のヴィクトリアンの闇を感じさせる。

タランティーノの『キルビル』に影響を与えた。
2008年、実写版が制作されている。

ここがターニング・ポイントなのか
ちょっと考えてみたいが
おとこ性がセーラー服少女の裏に見えているのと
何故、吸血鬼か、何故、殺すのかという
吸血鬼が表現される源泉を飛ばしているのが
気にかかる。



go to top

editors talk

2007/12/27

森村泰昌 荒ぶる神々の黄昏


シュウゴルームの入口には
独裁者たちの肖像
ヒットラーが演説をし懺悔をしている。

この作品はニューヨークにも行ったそうだが
勇気がある。

アメリカは
今、
逆、ユダヤ人問題となっている。

ユダヤ資本の代弁として
アメリカはイラクに報復のホロコーストを行った。
その中で
ヒットラーを表現することは
ある種
アメリカ、ブッシュへの大きな批判になる。
そして
それはアメリカの現代美術ができないことだ。

いま
モダンの源泉にある
ヤバイ部分に触ることは
重要だと思う。

森村泰昌の仕事は
本当の意味での
意図ある美術のアイデンティティを顕にしている。

go to top