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2009/12/05

二階健写真作品展「H+H 天使の解剖図」

今日、オープンの二階健展。

会場は、ビス始って以来かもという大掛かりな仕懸けになっている。
淡々と、情熱をオブジェに向けている二階健。

優しいデビル、まさに怪物だ。天使で怪物…今度の展覧会は二階健自身を展示しているのかもしれない。
身体がバラバラになって
ビスの空間に散らばって
またビスの伽藍に肉化して形を保っている。

ビスに入ることは
もしかしたら二階健の身体に入ることになるかもしれない。


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2009/12/02

『サマー・スプリング』 吉田アミ

DSC09397.JPG

アップリンクのサイト『DICE』でhttp://www.webdice.jp/dice/detail/1770/
ペヨトル工房のことを書いている吉田アミ

いったい何者なんだろうと
『サマースプリング』
を読んでみた。

思いだしたのは10年以上前
父親を鬱で失ってその現場に立ち会わされて衝撃を受け
そのまま罪悪感のようなもの(自分がその朝、死ぬと言った父親に死ねばいいじゃんと返したこと)
を持ちつづけ抜け出せず
その時のことを10年以上何度も何度も書き続け
それをギャラリーで発表して
少し抜け出せた
という人のことだ。

なぜかその作品にあった一週間の間に
3人の年下の友人に
父親の鬱死を告白され
それが残された家族に傷と影を落とすことを聞かされた。

子どもの頃に体験したことを
書き続けて客体化して
少しどうにかする
ということにこの作品は何か繋がっている様な気がする。

しかし
ここで描かれているのは
世界が終わった後に生まれた子たちの
世界観とそれゆえに浴びてしまう
様々な傷害だ。
傷害についてではなく傷害そのものを書いている。

吉田アミは対象に対してダイレクトにあたる。

廃墟とか
デッドテックとか
滅びるとか
世界の終わりの果てにとか
80年代はずっと終末を言い募ってきた。
それが文化のイメージだった。
その世界の果てと言われる時代に産まれた子たち
生まれた時から世界は果てになっている。
もちろん、重要なことはそれがイメージ優先であり
それは呑気なクリエーターたちが作り出した
幻影であったということだ。

しかしこの時代幻影は現実を引っ張る。

そこに生まれた子たちが
迷惑にも
そしてしょうがなくも浴びてしまうもの。

それを受けたものと浴びさせてしまった世代ととのギャップは限りなく大きい。
今、そうしたものが自分の前に
ふっと現れる。これももう一つの必然、もう一つの運命のような気がする。


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2009/11/27

Nikaism

Nikaism作動!

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展覧会
『H+H 天使の解剖図』
の二階健さんが会場入り。

素晴らしい速度でセッティングをしていく。集中力も凄いし、それでいて、ディテールは丁寧にみっちり。ヴィジュアルというと、かつては平面だったのだけれど…
時代が変わったのだなと
つくづく思う。

零年代も終わるけれど
僕の中では9年の終わりまでが世紀末。
世紀末の果てに次世代の人たちが躍り出るのだろうなと、
思う。
きっと二階さんもそうなのだと…

夜想は世紀をまたげるのか
などと、思ってみたりもするけど
そんなことを考える雑誌でもないかな…などとも思う。

展覧会前日まで作り込みは続く。


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2009/11/22

4.48サイコシス 飴屋法水・演出


世紀末感をあおったり
廃虚を表現したり


80年代からずっとやってきた。
僕もその中にいただろう。

それは本当の崩壊や廃虚を思っていたのではなく
ファッションだったのだ。
破壊するキッズ。
『アキラ』

疾走して、破壊する。
少年たちの特権だ。

その描かれたような予感されたような
終わった世界、それは描かれた虚構の世界だったのに
その時代に生まれた人たちは
イメージを現実に生きてきた。
現実がイメージを取り込んだのか。そこは分らない。

そんな世代の人だろう
サラ・ケラインの書いた詩のような戯曲『4.48サイコシス』

世代の違いとして受け止めるのは危険だ。
ここにできた断層は、軽く前後の世代を引っ張り込み
地層をひっぱられて呑み込んでいく。

感想はあるけど語るべき言葉がでてこない。

飴屋法水は実に真摯に
演出をしている。
今に嘘をつかない。
自分の気持ちに嘘をつかない。
ちゃんと受け止める。
受け止められなければ受け止められないということを受け止める。
飴屋法水のそんな姿勢を感じる。

良い。
とても良い舞台だ。
でも良いと言うのが相応しいかどうかは分らない。


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2009/11/21

東京カワイイ☆TV のさらに駄目な後日談

放映を見たら!!

問題の詳細の大部分はここに書いたが
http://www.yaso-peyotl.com/archives/et/002915.html

佐藤可士和は、真剣に素人さんデザイナーを選考していた。
うーん。誰も素晴らしい、落とすのは難しいなどと言って……。
佐藤可士和のデザインって、こんなレベルの問題なのか……。
目も見掛け倒しだな……。

素晴らしいと言うならちゃんとその目に責任をとってもらいたい。
所詮メジャーでちやほやされているデザイナーの生き様なんてこんなもんだ。

僕が選考委員なら全部軽くけっているよ。
改めて言うけど、可士和のデザイン感覚ってそんなレベルなんだね。

で、すごいのは
東京カワイイ☆TVは選考から落ちた人までパリに連れていき
結局、ファッションショーに出している。
何の為の選考なんだ。
何の為にビスで人に嫌な思いをさせて選考したんだ。

馬鹿にするのもいい加減にしたらいい。
可士和の存在も含めて。

完全にやらせの、しかもレベルの全然、ない
劣化コピー以下のものを垂れ流している。
NHKに受信料なんて払いたくないですよ。

カワイイ大使とか
そうした政治的な辻褄合わせの
道具と一緒になって!!

ほんとうにゴス&ロリータの文化をなんだと思っているんだ。


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2009/11/18

モンスター&フリークス

DSC09348.JPG

一年がかりで夜想「モンスター&フリークス」

なんでこんなにかかるんだろうと
自分でも呆れてしまうけれど

チャーミングな人形や俳優たち
そして写真

フリークスだから可愛い。
そんな号になっていたら嬉しい。

書店がかなり荒廃してきていて
だんだん夜想を扱ってくれるところが減ってきた。

大ピンチだけど
どうにかして乗り切りたいな。

宇野亜喜良さんのイラストも素敵だ。
みんな素敵だけど。


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2009/11/17

乖離同一性障害


自己診断だけれども。
乖離同一性障害。


酷いストレスを浴びて
記憶が飛んだ。
初めての経験。面白いので雑誌『S』にそのことをちょっと書いてみた。

まだ自分では良くつかめていない。
感覚としては深海のエアポケットに閉じこめられていた感じだ。
この3ヶ月。

水からは遠ざかり
閉ざされた空気の中でもがいていた。

多重人格だからやっていけるの。現代人はそうでしょ。
日本画家からそう言われたときピンとこなかった。
彼女はそれを日常にしているような感覚で言っていたからだ。

日常ではないでしょう。それは異常でしょう。
僕はそう思っていた。

僕は多重人格ではないけれども
この3ヶ月でそれが少しだけ実感できたような気がした。

違う性格の自分が作動する時があって
その出現は押さえられない。
いい歳して、と思うけれど、そんな大人の配慮にはお構いなしにでてくる。

それは
単独で起きていることではなくて、
皮膚を通じて進入してくるものがあるから
そうなるのだと
実感する。

ばらばらになりそうな
人格を、塵取りで集めて
とりあえずのヒトガタを作り
復帰しようと思う。
表の世界に。

おいおい闇の世界は話すことにして。
でも闇にもがいたゆえに『夜想』が無事に出て行く。
もちろんたくさんの人の力を借りて。

もう一人じゃ何もできない。
いやそうじゃない。一人でできないことを痛烈に自覚しただけだ。

『夜想』。
どうかな。

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2009/11/15

危機裸裸商店

アリスになりたくない
アリスを作れない

人形作家のそんな思いが展覧会のベースにあります。

危機裸裸商店のキキさんは
そんなことも引き受けて
展覧会を作っています。
可愛くて怖いアリス。

週末に訪れてはちらりと裸の人形を見て
さっと
コルセットを作っていく。

会場の隅にある危機裸裸商店の工房では
人形のコルセットが次々作られていく。

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2009/11/04

『芋虫』 丸尾末広

yaso『モンスター&フリークス』に

ぜひ、とは思っていたのだけれど
江戸川乱歩の原作をほぼ忠実に描いた丸尾末広の『芋虫』は
他の要素を入れず楽しまれた方が読者にもよいものと諦める。

乱歩の『芋虫』は
執着と
その執着が思わず切れてしまう瞬間と
それからの絶望が
描かれた乱歩にしては文芸作品。
テーマが究極だと出てくる文学性
それが乱歩らしいと言えば乱歩らしい。

丸尾末広は
独特のグロテスク描写…雑誌のコピーを重ねているように
どこまで深くても激しくても匂いのしない
まさにコミックの筆致。

四肢なしの男とのまぐわいをこれでもかと描きまくる。
当時の風景が寺山修司の美術のように描かれているそのつまり度合いが丸尾らしい。

バナナはあの当時そんなに手に入ったかな…などと原作にない部分の
現実性を思うのも野暮だ。

嚆矢の一作と
思う。

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2009/11/04

夜想がフィニッシュを迎えている

DSC09320.JPG

本当に余裕のない2ヶ月を過ごしてきて


かなり追いつめられて身動きとれなくなったりもした。
まだまだ解決には遠いが

それでも応援してくれる
駆けつけてくれる人たちもいて
元気つけられる。

どうにか保っている。
越えれば、何か見えてくるかもしれない。

一年ぶりの夜想もフィニッシュを迎えた。
ずっとずっと考え続けていたので
何かが見えるようになっていると嬉しい。

でもそれは結果なので
今は、最後のチェックに邁進中。

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2009/11/03

若松武史

30年はあっという間

若松武史(当時は武だった)を天井棧敷の寺山さんにねだって
泉克芳(当時勝志だった)の舞台にゲストで来てもらった。

『午后の饗宴』
生まれて初めての踊りの台本、生まれた初めての舞台の演出。だった。まさに30年前。
若松武史の個展「A HUNDRED EVES」(ポスターハリスギャラリー。2009年10月30日(金)~11月8日(日))
にビデオ上演することになってテープを回したら
黴で砂嵐。三分の一も残っていなかったかもしれない。
若松がサイドカー付のバイクにのって草月ホールの奥から登場するシーンももう見れない。

10年ぶりにあった若松は芝居の心が変わっていなかった。
数日前にマメ山田さんにインタビューしたばかりで
二人とも蜷川幸雄、美輪明宏の演出を経験している。
役者からみた演出家観が重なっていて面白い。

イエスマンが多いなか
若松武史は天井棧敷を出たばかりのあの初々しさとふてぶてしさを失っていなかった。

こんな奴なんだから
もっと気にせず、どんどん突き進んで、対立して
それで舞台を作れれば良かったなぁと思った。
あんときは、必死だったし
第一、若松や泉のファンだったから
しょうがないやなぁ。それでよかったんだとも思うよ。

ちなみに若松武史と泉克芳の改名は美輪明宏によるもの。
でも美輪さん若手の生気を吸っちゃうんだもの。大怪物だよね。


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2009/10/15

ストレス・フリー

ある時期

辛い思いをしたことがあったのでストレス・フリーにを目指そうと
優しい人になろうとし続けた。

騙されても、傷つけられても
まぁいいや。
と思って生きてきた。

だいぶ前から作業して僕がまだ発表していないプロジェクトに
『ベルメールinJapan』というポーランドでの人形展の仕事があって

お、そう言えば20年以上前の
『ボイスinJapan』が水戸芸術館で展覧会になる。

で、いろいろな人間にあって
優しくしていると仕事が成立しないという状況になって
やむなくファイティングをしたら

胃痛を起してひっくり返ってしまった。
身体がなまっていたんだろうな。
胃壁を鍛え直さないと。

問題ポイントを指摘しても
良いわけをしてそのポイントを認知しようとしない。
嫌なことを見ないで
すごそうとする防御的な気持ちは分らないわけではないが
それでは創作の関与した仕事はクオリティを確保できない。

もう少しで
四谷シモン、土井典からが参加してくれた
大きな人形展がポーランドで開催されることを発表できると思う。

夜想と
危機裸裸商店の展覧会と
ポーランドの展覧会と…。

危機裸裸商店の展覧会もそれぞれの作家に気合いが入っていて素敵なものになりそうだ。

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2009/09/05

散佚

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感覚が散佚していくのは今という時代のせいなのだろうか。


育てているオリーブに実がなった。
もらった木なので持ち主にとどけると
ふりっと身を捩ったような気がした。

瀧口修造の家に一本のオリーブの木がある。
そのことを青木画廊に集まってくる知識人たちは
なんとなく誇らし気に語っていた。
夜に木の下で瀧口修造と撮った写真を見せてくれた人の
どれほど羨ましかったことか。

どうにかオリーブの木を持ちたいとか
そんな気持ちは何も起きなかった。
夜、そこに立って見たい
ただそう想っていた。

あの時
感覚は妄想に囚われていたのだろうが
少なくとも
持続をもっていた。

戻ることはできない感覚は
一枚のメモのように
モニターの向こうに映る
海峡の嵐で沈没した船から一人救われた少女のように
そして銀髪になった坂本龍一がまだ戦場のメリークリスマスを弾いてしがみつかれているピアノをみるような
かすかな
ざらざらとして走査線のメモでしかない。

断裂線の上に置くメモは
かろうじているオリーブの実が置かれた
それでもせめてティッシュのような
実紙でありたい。

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2009/08/28

ポーランド

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キェシロフスキの映画には

聞えない声、
聞えない音が
ふっと彼女をとらえる瞬間があって
その不思議な一瞬が吹く風のように、止まる時のように
思える、
まだ思える自分の感性を確認するために
見続けるときがある。

ポーランドから連絡が入って
人形展をコーディネートすることになった。

ポーランドのディレクターと作家のアトリエを巡っている。
ふと交わした会話の向こうに

聞えない声がする。
ヒットラーユーゲントの愛した
美しい身体は
美しくない肉体を滅ぼそうとした。
とすると
滅ぼされた国に
美しい身体の人形はふさわしくないと、

その先に
ある
感覚。
それを見たい。


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2009/08/26

メディアはこれから…

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EP-4のギターの好機タツオが死んだと
ネットにあった。
今日知った。

さらにEP-4がこれを期に再結成すると。

アップリンクでEP-4のカセットブックの話をしたばかりだったので
びっくり。
シンクロするものだ。
200から手作りして売ったカセットブックは5500まで売れて
そこから坂本龍一の『アヴェク・ピアノ』のカセットブックができて55000売れた。

発売中止になったEP-4の『昭和崩御』はペヨトル工房が引き受けて
書店売りを行った。

お騒がせ系のメディアの使い方だったが
それでも何かが確実に動いていた。

今、インディーズのメディアにその起爆性はない。
もしかしたらインディーズのメディアという考え方すら
存在できないのかもしれない。

コンテンツを集めただけでは
メディアにはならない。
そこにはいかがわしさもついてまわるかもしれないが
拡がる魅力をもっていないとメディアにはならない。


あきらめていた
メディアのことを少し考えた。


EP-4が動くとしたら
メディアはどうセットすべきなのかと…。



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2009/08/24

『乱歩・白昼夢』/結城座

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理由なく、人が人を殺す時代になった。それはこの頃から始ったのかもしれない。

台詞は正確に覚えていないが、人形師が、物語を語り、人形の台詞を吐く。ダイレクトにメッセージが伝わってくる。
『芋虫』『屋根裏の散歩者』『一人二役』『人でなしの恋』を結城座用の脚本にして演出をした斉藤憐のメッセージなのか、結城孫三郎のメッセージなのかそれは分らないが、乱歩の時代風潮を平成に重ねようとしている。たしかに予感として経済恐慌を浴びた00年代は大正の前半に空気が似ている。
斉藤憐は、乱歩を通じて大正時代の日本、そして戦争へ向ってひた走る状況、そのなかでの浅草の庶民の姿を描き込んでいる。そこまでは乱歩の小説に社会性はないだろうが、それは斉藤憐の特質で、結城座の舞台にはもちろんあっている。
大正大震災の復興ができない批判をかわす為に、朝鮮人暴動の噂を流し虐殺したといういきさつもかなりリアルに書き込んでいる。
大正大震災と言えば、大流行だった娘義太夫が廃れていくのもそのことからだった。結城座は娘義太夫の竹本素京大夫が、劇団の柱だった。娘義太夫は、義太夫の演奏と語りを独りで演じる。文楽では弾きと語りは分かれている。最後の娘義太夫と言われる竹本素京は、2007年に亡くなられたが、人形を操る現場で、娘義太夫が続いていたことはとても貴重であり、なおかつ重要なことだった。
現場があって、語られる人形があって、義太夫は生きているのだ。
結城座の人形遣いは、文楽のようにすべてが分業化されていることに比べると特殊性であるが…人形も公演ごとに自作する。『乱歩・白昼夢』では、宇野亜喜良がデザインを担当した。鷲尾少尉(芋虫・乱歩)は、鷲鼻でどこかゲンズブールのようなフランス風な洒落た雰囲気になっている。もっと妖艶なはずの時子は、竹久夢二の描く大正少女を仄かに漂わせながら、宇野亜喜良の少女である。時代が混淆され、作家が自作と原作をテレコにして作りだす。生きている人形芝居だ。それでこそ人形に息吹が吹き込まれるというものだ。等身大の黒色すみれが、人形と一緒に演奏しても、それが浅草オペラを思わせながらいつもの黒色すみれであっても、ゆるやかに合わさっている。
少しいい加減に、それでいてメッセージとかイメージのあり方を明確に押さえている結城孫三郎の意図は、彼らしい選択であると思う。結城座が文化物としてでなく現役の、地べたで演じ続ける、人形あやつり一座として生きていくことを選んでいるのだから、これが道だと思うし、成功している。観客や参加するクリエーターたちを刺激する魅力を孫三郎はもっている。

結城座(東京芸術劇場 2009/08/19~08/23)


『芋虫』を読むならこれ。
江戸川乱歩は創元推理文庫が良い。連載時の挿画が再現されている。

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2009/08/20

劣化コピー ネット/2チャン

ネットは劣化コピーの温床
ネット・マガジン『骰子の眼』/で浅井隆さんと対談してそう語った言葉が

タイトルになって
2チャンで炎上した。

2チャンが嫌いといった発言と
ネットは劣化コピーの温床と言った発言が
混ざって読まれているのだろうが

ネットの劣化コピーは
2チャンを媒介していなくて
おそらく信用に足りるだろうと思われているインテリのサイトやウィキペディアに書かれている
あっていそうな事柄が事実としてコピーされて定着していくことを言っている。

本について書いているものが、その本の解説を自分風にアレンジしたもので、そのアレンジが自分の感覚で、裏がとれていないものだったりする。しかしその人が本の権威だったりすると、それはあっと言うまに、ネットの基本引用事項になって拡がっていく。
それは読む人がうなずきやすい言いっぷりであるから、事実とズレていても、いやズレているがゆえに流布しやすくなるのだ。
ネットの劣化コピーは主にそのことを言っている。

2チャンが嫌いなのは、故無き、腐す言葉を叩きつける感じが嫌だということで、相手が嫌がること、元気なくなることをわざと言うという基本姿勢をしていて、それは2チャンネラーの思う壷通り、何かをする側は、するのが嫌になってしまうということなのだ。
作るという行為は、作っているというだけでレスペクトされるものではないが、批評が本来、次の創作に重要な力となるということとまったく逆のような作用を及ぼすからだ。
DVとかアディクションの恋愛の嫌な感じ、逃げられない感じ、それでも言い訳を行動してしまう感じを起す。それがとても嫌だと言っているのだ。ネットは使うので、ググったりするとなにかのおりにふっとあたったりする。で、逃げるのも嫌だからやっぱり見てしまい、しばらく何もする気がなくなってしまう。だから嫌だと言う個人的な話で、存在するなとか駄目だという以前の問題だ。

劣化コピーの根元になっている、あるいはその現象については、嫌とかという感情の問題ではなくて、メディアの有効性や美学に関する大きな問題だと思っている。できればこちらは無くなって欲しいと思う。そこに存在しているのは、僕は分っているという愉悦感と、それにともなう優位性と、それによって商売をするという行為の連鎖であるからで、劣化して書かれたそのものはただただ違うものにすりかえられていくというどうしようもない負の連鎖を浴びることになるからだ。

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2009/08/18

身体に流れる音の息吹

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「ENSEMBLES 09 休符だらけの音楽装置」展 EXTRAが終了した。

音楽や音の仕事をしてきたけれど、
今、初めて覚醒した音の感覚がある。
音のインスタレーション。

環境の中に音を配置するのではなく
音の波で空間を振動させるように音をそこに存在させる。
うねっていく音、音として認識できないような振動。

ビスは左右に部屋があってその真ん中に階段がある。
部屋を割っている階段と、丸い二つの窓が好きで、考えもなしに借りた。
その階段を音が波をうって、落ちたり上ったりしている。
坐って体感する。
場所によって音場は異なる。

バラッド社のMusikelectronicというスピーカーを使っているためでもあるが
可聴音域以外の音もクリアーに再生する。
それあっての今回のFilament(大友良英+Sachiko M)のインスタレーションだ。
聞こえない低周波の音は、粘度の固まりのようにどーんと鈍く存在しているものだと思っていたが
そこに形状の違いがあるのだと体感した。

出る低音の違いによってビスの壁が鳴ったり、床が震えたり、天井が共振したり
細かい差があるのが反応によって分かる。

クロージングコンサートの「コロスケ&くるみ&飴屋」
伊東篤宏
utah kawasaki
Sachiko M
大友良英

メンバーの音のパフォーマンスも覚醒的な出来事になっていた。
いつはじまるともなくはじまって
飴屋法水は水をもってきて大友の演奏の側に置き
窓を少しだけ開けた
そこにいてそうしたかったから
あとで飴屋法水はそう言っていたが
何も考えていない
そうとも言っていた。

水をはって
大友の音の振動が水面に波紋を起こす。
その波紋は飴屋の皮膚を振るわす。見ている脳を振るわす。
動きが手からはじまる。脳よりちょっと早く。
窓を開けたいな。風がちょっとだけ欲しい。波紋を壊さないような、風の波が。
風も音がさせている。
飴屋は風を演奏する。

ナハトの床に移った飴屋は飯台に水をはって
花火をする。
線香花火の真っ赤な球が水に落ちて
ぱちんとはじける。
ぱちん。じゅじゃないんだ。文学に毒されている頭が驚く。ぱちんなのか…。

一円玉を放り上げ、天井にぶつけ、壁にぶつけ
アルミは鈍い音で転がる。
ここで聞いた初めての音色。
乾ききったコンクリートには金属を投げてキンキンいわせる。その音は良く聞いた。
飴屋は一円玉。


空間の中で振幅して、広がってまた消滅していく音は
頭を介さないで手や、皮膚から入って腸で受けとめられ、また外へ出ていく。
飴屋法水はその音場に正直に行動しているように見える。

考えないのではなく
考えなくても場所や音や観客の歓声に応じて流れていけるのだ。

身をまかすというのでもなく
身を通すという感じ。


音の仕事もしていたけれど
音痴である理由が今、分かった気がする。

最近、ゴッドハンド、デビルハンドという言い方を良くするけれど
どんなに知識があって作法どおり入れても、お茶が巧く入らない人がいる。それをデビルハンド。
こんな感じかなと、適当にしても美味しく入る人がゴッドハンド。

でもそれは感性の良さというのともちょっと違う気がする。
生まれもっている手の性質なのだ。
お茶が駄目でもパンを焼くのが上手だったりする。嗜好性の問題のような気もする。

僕はパンと音がデビルハンド。
致命的だ。
でも音に対してなぜデビルハンドなのかは分かった気がする。
身体に音の流れを持っていないのだ。身体に音流があれば外の音にもシンクロできる。考えずに反応できる。
考えてするパフォーマンスは一つずつ遅れてしまう。
シンクロしないのだ。

何十年も死んでいた身体はそうそう音の流れを回復してはくれないだろう。
でも知ることは大切だ。
だめな身体を意識化することはとても重要なのだ。
思考するより反応が早くないと、手はデビルになる。

うーん。頭より速く動けるものが僕にあるのだろうか。
絶対的デビルハンドだったりすると嫌だなぁ。

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2009/08/16

東京カワイイ☆TV の駄目さ加減

NHKのディレクターに何度も説明したように

2ヶ月に渡ってBABYTHESTARSSHINEBRIGHTの展覧会を行ったのは、
ゴスロリと称されていることの実勢に何かがあると思ったからだ。

ゴスもロリータも180度違う価値観をもっているのに何故、ゴスロリという混合した名前で呼ばれるのか。
文化であるゴスやロリータがくしゃくしゃっと表層だけ掠めとられて名を付けられてどんどん劣化コピーされてこんなになっちゃってる。

その劣化コピーされたものをさらに劣化させて海外にもっていったのが
東京カワイイ☆TVの8月15日放送の『パリプロジェクト・最終章』

ストリートからキャリア零のデザイナーを何人かピックアップしてきて
素人さん+佐藤可士和が選んで、選ばれたデザイナーがパリコレに挑戦して評価を得れるかという代物。

パリに提示されたイメージとコンセプトは
今、日本にあるゴスロリと呼ばれている劣化コピーされた文化、その根元にあるゴスとロリータという文化。とはかけ離れた
NHKのバラエティーのシナリオも書けないようなディレクターが書いた現実遊離のシナリオなのだ。
ゴスロリなら、ゴスやロリータなら流行の文化を背景にした日本の提示になるだろう。かろうじて。

素人のデザイナー(もちろんここから才能が生まれるかもしれないが、それはゴスロリとも可愛いとも関係のない才能だ)を
突然、日本の現代の文化現象の上に乗っけて、番組のやらせとはいえ、パリで見せるなんて
なんと傲慢で、聴取料の無駄使いをしているのだろうNHKは。
ドキュメントをすべきじゃないのか、分かっていないのだからNHKは。
ドキュメントと言えば、ロリータブランドを取材していたNHKディレクターが放映前に痴漢で逮捕されてその取材がお蔵に入ったということもある。ロリータとロリコンのロリがいかに異なるかということを今最も認識しなくてはならないのだが、NHKのディレクターはロリコンの方からロリータブランドを見ていたんだな…。

ついでに言っておけば、外務省のかわいい大使も
間にちゃんとプロダクションの手配師が存在するし、かわいい大使も雑誌の読者モデルであって
ロリータでもゴスでもゴスロリでもない子で
文化を浸透させるなら、顔じゃなくてほんとのロリータやゴスを選ぶべきだと思う。外務省の役人もロリコン風だからなぁ…。最悪。

今ある文化を理解せず、劣化コピーされたものを自分勝手に解釈して
最悪なシナリオを書いて、それを通用させる快楽に浸っている。権力と金の力を使って。
そこにNHKも一枚かんだという訳だ。

襟も満足についていないような服をもってきて、パラボリカビスで投票させたんですよ。BABYTHESTARSSHINEBRIGHTのコアなお茶会のメンバーに。デザインをなんだと思っているんだろう。そのデザインもできていない服を、買って着るのは自由だし、そこから生まれるものもある。しかしそれをいかにも今の日本文化の背景に乗って登場したとパリに、見せつけようとするNHKのやらせ体質は、ほんとどうしようもない。番組を見ている、ロリータもゴスも知らない視聴者は、パリで見せた素人のファッションショーを今、日本で流行しているものの一端だと思ってしまうだろう。文化に対する犯罪だとすら思える。

このデザイナーたちを褒めた佐藤可士和。自分の言葉には責任もてよ。番組に登場して発言できた唯一のプロなんだから。

そしてビスの会場で投票し、佐藤可士和にセレクトさせながら、落ちたメンバーも連れていって、ショウに参加させたり、売り込みさせて番組のネタにしている。まじめに意見をいって選んだ、ビスに着てくれた、ロリータの人たちの気持をなんだと思っているんだろう。
そうは言ってもテレビに出たいんでしょ、利用したいんでしょ会社はという傲慢さが伝わってくる。


ネット・マガジン『骰子の眼』/で浅井隆さんと対談して
放言している僕はネットは劣化コピーの温床と言っているが
NHKの東京カワイイ☆TVは、劣化コピーに擦りもしない、捏造工場だと思う。
劣化というからには、劣化の根元があるわけだけど、その根元から逸脱し、そこに何も敬意を払っていないというのがNHKの東京カワイイ☆TVだ。制作費は聴取料からでているんでしょ。ひどいなぁ。
それに比べたらネットの劣化コピーは100倍ましだ。

まずちゃんと見ろよ。
あ、そうか痴漢ディレクターがそれに失敗しちゃったからね…。
見ることができないから捏造しているのか。
だったら番組なんか作んなきゃ良いじゃないの。
でも分かんないんだろうな、ほんとに。イノセントというのが最も酷い罪なんだけどね。
それも分かんないだろうな…。

とにかく仕込みとやらせだけでできているものを公共放送で流しているんだから
文化も掠めとられ刈り取られ、いつの間にか醜いものに変わってしまうんだろうな。
嫌だ、嫌だ。


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editors talk

2009/08/02

誰もいない

DSC08928.jpg
ここには
誰もいない

寺山修司も
そして…誰も。

いつか夜想で寺山修司の特集を
と思い続けて
それまでは墓にも記念館にもいかない。
そう決めていた。
墓はいらないと言った人だから

もしできるなら
寺山修司という言葉の墓を作って捧げようと

そしてもう
四半世紀がたって
僕は無駄に時を過ごした

寺山さん
僕は、空の手で三沢に来てしまった。
1983年5月
病で倒れてた僕を寺山さんは連れていこうとした。
何もない手で
訪れた僕を
ならばこっちにおいでと僕に道行を運命として
手渡すのだと
勝手に思っていた。

だから安全ブレーキをもって三沢には立ちたかったのだけれど
いろいろあってそれもならず
一人、無防備なまま
僕は森を歩いていた。

三上博史が
覚えているはずのない
(だって僕の姿はとてつもなく変わってしまっていて
僕に森の中で声をかけた
久しぶり。
笑顔が明るかった。

僕は寺山修司の碑のあたりから
湖を眺めていた。
ずっとずっと。
霧雨がずっと降り続けて服はだんだんに重くなっていく。
それは服の重さではなく
心にどこかに入り込んで
何かを沈めていた。

寺山修司は質問として生きたかもしれないが
僕は、寺山修司を答えとして生きていたのかもしれない。
目的に生きていたのかもしれない。

まちがっていたのかな。ね、寺山さん。

茫漠とした憂いが
身体を重くする。
脳を蒼く染める。

目的はないんだね。
指標もないんだね。

そのなかで寺山さんは答える間もなく質問を続けてきたんだ。

いまその質問は僕でないいろいろな人に答えられている。

思い上がって言えば
そんなにあっているわけじゃぁない。
でもそれは答えなんだ。寺山さんは1つの質問には
答える人分の答えがあると思っていた人だ。
それを疎外しちゃいけないと思っていた人だ。

ひっかかっていないと思って
僕もしっかりとひっかかっていたんだね。

人の答えの中に拡散した25年。
寺山修司は望みどうにみなの答えのなかに生きている。

ここに寺山修司はいない。
墓にもいない。

僕は何を目的に、何のために生きてきたんだろう。

そしてこれから
どうやって。

湖はただ湖として
僕の目の前にあってセンチメンタルなものは
なにもない。
ただある。
そして誰もいない。


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