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2008/05/18

『失われた時間を求めて』 阿佐谷スパイダース

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『ドラクル』の時の作・演出の長塚圭史は一体、何だったんだ? 
海老蔵の我が侭に負けた? それともあれが本来の力?

阿佐ヶ谷スパイダースは、作・演出、そして俳優もつとめる長塚圭史が中心の3人のメンバーで構成された演劇ユニット。その度ごとに役者をプロデュースしてくる。日本の劇団は、どちらかそいうと家族制度のようなところがある。お父さんが作・演出。お母さんが看板女優。喧嘩したら劇団ごと解散になる。他のメンバーはたまったもんじゃない。

『失われた時間を求めて』は、一つのベンチと、それが置かれているどこだか分らない場所、そして不可解な話をし、行動をする人たちの台詞によって成立している。

ずいぶん前にいなくなった猫を探し続ける人、その行動を探って手伝おうとする女性…。猫を探す人の兄弟もでてくる。人を殺したいというネガティブな妄想を抱き続けている男は、落葉を拾ったりばらまいたりナイフを振りかざしたりする。

この演劇は「動物園物語」(エドワード・オルビー作)の設定を使っている。もしかしたら「失われた時を求めて」(マルセル・プースト)のテーマも使われているかもしれない。

設定をパクるというのは、大正時代から現在まで平気で行われているが、いかがなもんか。

それでも『失われた時間を求めて』は面白かった。前衛の匂いすらしなくなった日本で、これは前衛の部類に属する。

記憶と時間と空間というものは、人間の主観によって大きく異るものだ。時代や社会の状況によっても異る。そのずれを描くことで社会格差などを鮮やかに浮かび上がらせるのが、「動物園物語」や「失われた時を求めて」だった。

その設定を現代の日本に置き換えるとどうなのか? というのが長塚圭史の今回の実験ではないだろうか。格差は大きくなり、表の顔と裏の気持は遊離しているにも係わらず、非常に平板に見える姿をしている今の人たち(それは年配者を含めてのこと)が、意識下の最も気になっていることがらによってコミュニケーションするとどうなるか? 実験に答えはない。結末もない。

それでもよいのは、実験の果てに見えてくるものが、かみ合わないままどこにも到達しない関係だからだ。それは、今の現状を見事に反映している。

この演劇を不条理と言うのは簡単だ。でもそうじゃない。不条理にすらなれない、やりきれないさ、だらっとかみ合わないどうしようもなさだ。失われた時間は永遠に失われ、回復の兆しすらない。やり切れなさの向こうにあるのは何だ。

僕の脳裏には白い絶望という言葉が浮かぶ。


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2008/05/16

『ブックデザイン ミルキィ流』 毎日コミュニケーションズ

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いま出版制作のシステムが変わって編集者はとまどっている。

みんなはそうではないかもしれないが、少なくとも僕は、そのことでちょっと困ったりしている。DTPをいち早く導入したのに使いこなせていない。そんな編集者たちを相手に、こうしたらいいんじゃないと、ミルキィ・イソベは語りかける。良い本を作ってきたデザイナーの考え方と生き様と気概がこの本に込められている。

本の現場では、アートディレクターの存在が不可欠になっている。そしてそのことでエディトリアル・デザイン、編集、制作が真摯にコラボレーションしないと、良い本ができなくなっている。

ミルキィ・イソベという20年以上、デザイン、編集、制作の現場で、身体をはって考えてきたデザイナーの軌跡は、素晴らしい本作りのノウハウであるとともに、大袈裟ではなく出版への警鐘にもなっている。今、出版は問題を積載したままよたよたと走っている。一方では儲ければいいじゃん、という乱暴な出版もまかり通っている。


そんな現状の中でも、それでも紙が好き、それでも本が好き!! と明るくポジテブな態度で仕事をしていくミルキィ・イソベに、どれだけ編集者たち、著者たちが元気づけられたことか。この本の中には、所謂、ノウハウに近い秘密がたくさん明かされている。明かした目的は一つ。真髄を明かすことによって、好きな紙が残ったり、良い編集者が育ったり、いろいろなことが、何か起きると思ってこの本は書かれている。未来を少し信じている本だ。少しでも未来を本気で信じている本は少ない。それだけでもこの本は価値がある。

良い本と書いたが、良い本というのは存在する。良い編集者も存在する。そしてもちろん良いデザイナーも。価値観あっての出版だ。美味しい食べ物という概念があるのと一緒で、良い本というのは存在するのだ。この本は、そんな本を作ろうとして奮闘してきたデザイナーの、手の証である。

こんなに本の中身のこと、著者のこと、編集者のこと、出版社のこと、読者のことを考えて本を作ってきた人は他にいないだろう。考えていますということを表明しながら、自分のやりたいことしかしないというよくあるあれ、とはまったく異る。本という物理、もの、そして流通してく「ぶつ」としての本の側から見ている。そしてその「ぶつ」に息吹を吹き込んでいく。作家の、編集者の…ときには印刷のディレクターの…。

デザインをするときに「敢えて」中味を読まず、「敢えて」ちょっとミスマッチな感じが良いよねなどというデザイナーはもの凄く多い。結局、いつもの自分のパターンに持ち込むためのトークなのだが。ミルキィさんのデザインはその対極にある。読んで、ポイントを掴んで…その掴んだところで揺るがないところが素敵だ。ああも読める、こうも読めるという感じではなく。これ!って決めたら、そこを中心にぐいぐい作っていく。でも編集さんとの関係で、変更するフレキシビリティもある。製作費の関係でできないこともたくさんあるから。そのミルキィさんの掴みがそんじょそこらの批評家より深いのが凄い。


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2008/05/16

なんでそんなに考えるのか?『ブックデザイン ミルキィ流』 

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こんなに考えるデザイナーはいない。

デザインは感覚的なもの、感覚が優先する仕事だと思い込んでいる人も多い。
確かに感性は必要だし、最後にものを言うのはセンスだ。しかしセンスを生かすためには、考えること、考えて、考えて工夫をしたりすることが必要だ。今はDTPになっていることもあり、工程が複層化しているし、一人でフィニッシュできない。製作するには、ふさわしい流れを作り出すコミュニケーションも必要になってくる。

エディトリアルというのは、そういうことだと思う。ミルキィ流・ブックデザインの大半は、エディトリアルに費やされている。この本は、デザインの本でもあると同時に、エディトリアルの本でもある。ブックデザインとは、広義のブックマネージメントなのだ。コストのことも計算しなくてはならない。

大好きな割烹の花板さん、三津川等さんの喋りを思い出した。腕が良いだけなら20代でも祇園の花板になれそうだけど、腕だけじゃここに立てないんだよ。今日の仕入れにいくらかかって、今日のこのお刺し身一切れのコストはいくらかって、瞬時に分らないと駄目だし、お客さんのお腹の容量はぴったり把握できないと駄目。親子がそれぞれ彼女を連れて別々に入ろうとしたら、どう対応するのか、酔っぱらっているお客さんには何をだすのか、僕みたいに素面で食べまくっている人にはどうするのか? そんなことがすらりとできないとここには立てない、と。

同じようなことが本をデザインする人にも必要だ。このくらい売れそうだから…でも出版社はそこまで売れるとは思ってにないので、予算はこの位しかでない、紙はコストを下げるけれど、ここにはコストをかけてもらって、それでデザインの意匠を通す…そんなことあんなことをミルキィさんは、にこにこ笑いながらやっている。明るくポジティブに対応するというのも大事な仕事なのだ。

問題は山積みだ。それをひとつずつ考えてポジティブに解決していく。

内容も読む。把握する。この本に書かれている『この本へのアプローチ』というミルキィさんのデザインする本に対する考えが、そんじょそこらの評論より抜きんでている。

考えるという論理的な行為を、感覚的なイメージの世界へ融合させるのは、難しい。そんなことできている人を殆ど見たことがない。現代美術でも考えが進んだ作品は、どこか理屈っぽい。感覚的な作品は思考的な深みがなかったりする。論理と感覚が同時に深い、そしてきちんと整合しているというのは、とてつもなく凄いことだ。

この本を身体を任せて読んでいると、ロジックからポンと感覚に変わるポイントが分るようにもなっていて、本の文体自体が、ミルキィさんの作業生理に非常に似通っているものになっている。読み物としても、教本としても、そしてこうあって欲しいという、表向き語られていない、そして深いところで願い続けている、創作の動機を伝えるメディアとしても、この本は優れて、楽しい。

本ってこういうものなんだな…。本ってこうやって愛情をかたむけて作るもんなんだな…。つくづくそう思う。


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2008/05/16

鑞の棺桶

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鑞の棺桶はナハトの微熱でしだいに変形していった。

恋月姫さんの人形の柔らかな重みを受けて沈んでいく棺桶の底。
人形は埋もれていく。十年いたら鑞の棺桶と一体化したのだろう。今夜、人形たちはナハトから発掘されてそれぞれの旅路についた。そしてナハトは誰もいなくなった。不在の棺桶。

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2008/05/16

コックさんが三人並んで

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卵白と豆腐をもの凄い勢いでシャッフルする。

交替、じゃぁ次。また交替。一列に並んで、どんどん、どんどんシャッフルしていく。
出身地方が違うのに、みんな仲よし。
台所代わりに使っている中華料理屋さん。ビスにいると行く頻度が尋常じゃない。美味しさも尋常じゃない。値段は安い。

ふわふわの豆腐を揚げた衣の中にまた豆腐とお肉。
うーん。ほんとうに美味しい。

鳳凰が陽から出てくる、というような名前がついている。
もちろん忙しいとできない、賄い料理。

ときどきおまけのプレゼントをくれるのだけれど、オーナーの方がくれる他に、厨房からのこともある。厨房のコックさんは、お店のいろいろに権限をもっていて、力があるんだと、オーナーの人が教えてくれた。

オーナーの人は、少子化政策の関係で日本に来ている中国の人。
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2008/05/15

熟成年度

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谷中を疾走中、お茶を飲みたくなってふらっと『アノマ』に

選んだ雪茶は強かった。
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一煎目からがつん、と衝撃。三煎目になっても、まだ暴れている。やんちゃなお茶だ。六煎目あたりで落ち着いたと思ったら、ふくよかで、拡がりのある味になった。あとは十四煎くらいまで安定して、大人な感じ。

星川さんと、お茶の熟成話をしていて、偽物もあるし、なかなか見分けがつかないなど……。お店はもう閉めてしまって、アナログのロックがかかっている。さすが星川さんなので、ジャケットの特殊なものや、ピクチャーレコードまである。
強烈なお茶に酔いはすでに廻り、少々呂律が廻らなくなっている。
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エアロ・スミスをリクエストした。フリーも良かった。

熟成の感覚というのがまだまだ身体にはいっていないのかもしれない。少し前に、14ヶ月、24ヶ月というプロシュートを食べて、イタリアでの体験が、ちょっと揺らいだ。生な感じが、若いものだと思っていたらそうではなく、熟成期間が長いとまろやかにそして生っぽくなったりする。

バルサミコも熟成期間でだいぶ味が変わるが、熟成が長いとある時期から、あっさりしてくるような気がする。これも同じ会社の、同じもので比べないと、はっきりしたことは言えない。奥が深い。

パルメジャーノも熟成期間で変わる。チーズ自体も、腐る寸前のものが美味しいということもある。

熟成の感覚をもう少し知りたくなった。


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2008/05/14

クリップ

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使いがってが良いクリップを

なんとなくずっと探していて、深夜に会社でごそごそやっていたら
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イタリア・ルス社(Mondial Lus )のクリップが出てきた。東急ハンズでずいぶん昔に買ったものだ。挟んでみると理想な感じ。コンテごとに紙を綴じたいのだけれどクリップの分、厚くなるのがどうも気持ちが悪かった。この厚みなら快感だ。
今は日本に入っていないみたいだ。くるくるクリップは輸入されている。くるくるクリップ、イタリア・捨て子寺院の側の文房具屋で買っていた。

また嵌りはじめたらどうしよう。実はマスキング・テープもかなりのところまで来てしまっている。次回、展覧会から会場で売ったりもしようかと思っている。売って利益をといういうより、広めたら楽しいな…という感じが強い。

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2008/05/13

江戸蕎麦ほそ川

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チェックするような目つきの

若い人と、グルメだぞ!っという雰囲気を身体一杯に出している中年の人に挟まれて
せいろ蕎麦をすする。まぁdancyuを見て自転車を飛ばしたのだから、他人のことは言えない。一回目なのでなんとも言えないが、食べていて、朧な箱のような形態の記憶が僕にヒットしてくる。その箱は池之端の藪のお蕎麦に対したときの何かに重なる。江戸が透けるというのか……。美味しい。

お代わりをすると別の産地の蕎麦でうったせいろが出てくる。お茶は番茶。いい感じ。
そば湯はこってり、白濁している。もう少しタレを残しておけばよかったな…。

いつもそうだけど、飽きるまで食べて、それが何日分なのか、そしてまた行きたくなるのか。そんな時までは、余り判断も考えることもしない。

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2008/05/13

プライベーター

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浅草はあと少しでお祭りに入る。


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季節外れの颱風が近づいて、お祭りだというのに、寒い日が続く。
今日が、展覧会最終日。70人以上の人が見に来てくれた。

ここからいろいろなものが生まれていく。
話をするだけでも何かのきっかけになる。相互に…。

F-1のアグリチームが消滅した。
これからのレギュレーションはプライベーターに厳しい。新たな参画は難しいだろう。
TVのインタビューで他のチームのオーナーがよくやった…みたいなことを言っている。
追いだそうとしたくせに。
ベルガーのコメントがもっともまともだった。

思えばペヨトル工房も夜想もプライベーターだ。
2000年に一度、撤退している。
復帰は難しいと思ったが、どうにか戻ってきた。

愚痴にならないように言うが、辞めると惜しまれる。助けたのにと言われる。やっているときは、辞めると言っても無関心だ。それが現実。惜しまれて辞めて復活しても、別にサポートがもらえるわけではない。辞めた時の方が関心は高い。うまく言えないが、メジャーのブランドと結果が良いものが好きなようだ。
日本でのプライベーターの存続はなかなか難しい。アグリチームに大企業はサポートしないもの。サポートには広告効果という計算しかないんだろう。おそらく。

意志をさらに強くもってプライベーターとして存続していこうと思う。
そしてワークスに負けない、面白いレースをしたいと思う。立っているだけじゃ駄目だ。


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2008/05/11

『海の闇、月の影』『天は赤い河のほとり』篠原千絵

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理想のコレクター

恋月姫さんと篠原千絵さんの対談がパラボリカビスで行われた。

篠原さんは『海の闇、月の影』 『天は赤い河のほとり』『闇のパープル・アイ』などの少女コミックの作家さん。
二度も小学館漫画賞を受賞している。

ストーリー展開に独特の力量があって、どうまとめるんだろうか? どう展開するんだろうかという難しい局面で、例えば伝書鳩が出てきて、パラレルに走っていた話が、一気に統合され、またそこから拡がっていくというような、緩急、幅の広さの自在さに長けている。超能力や不可思議な力がでてくるが、物語の展開に利用されていずに、最小限度、ストイックに使われていて読みやすく、楽しみやすい。物語の筋に妙味がある。

その篠原さんは、恋月姫さんの人形を多数コレクションしている。
そのコレクターならではのお話をいろいろしていただいた。そして恋月姫さんとの対話が面白かった。人形作家さんの側からの感覚と、コレクターさんの感覚と、微妙に異っていて、シンクロしている。

篠原千絵さんは、恋月姫さんのお人形を次の世代に伝えるために無垢のままで持っていたい、だから名前もつけていないとおっしゃっていた。

コレクターさんは、所有しているものに対して、自由を持っているけれど、例えば、ゴッホを125億円で、ルノアールの119億円で落札した日本製紙の齊藤 了英が「俺が死んだらゴッホとルノアールの絵も一緒に荼毘に伏してくれ」と発言して欧米からバッシングを受けたように、なんでも、どうにでも出来るというものではない。文化遺産として伝える義務ももっているのだ。預かっている、伝えるという感覚をどこかにもっている必要がある。というか、そういうものだ。コレクションというのは相応しいところにあるのが、幸せというものだ。

篠原さんは会場にいても、本当に恋月姫さんの人形が好きだ、という感覚が伝わってくる。まず好き、というのがコレクターのはじまりだろう。そいういう意味でも篠原千絵さんは、理想の人形コレクターの一人だと思う。お話を聞けて良かった。

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2008/05/10

ブライスの目は 


雛の里から戻ってみると


東京はすっかり春めいていた。iPhoneのナビで彷徨った末に(現在地の表示があいまい過ぎるよ)ようやくたどり着いたシルク・ドールの店は、かつて80年代に夜想編集部があったフェイスビルの裏のマンションの隣だった。いつのまにか白虎社の東京事務所が隣室に巣くいマンションの二階はけっこう恐ろしいことになっていたが、そこは開発の遅れた、雨が降ると道がどろどろになる不思議な場所だった。360°もあり、ピテカンもあり、カルデサックというカフェバーの走りもあった。
シルク・ドールの窓から強者どもの夢の跡に思いをはせつつ、コルセットやラバー服に囲まれた店を一周すると、雛の里からついてきた座敷童子の少女が白革のメイド服を着てにこにこ笑っていた。また会ったね。

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2008/05/09

先生は?

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あ、今日は打ち合わせではないんです…。

元ペヨトル工房があったビルに入っている「セリーヌ」という喫茶店。
丸尾末広さんと打ち合わせするときはここでする。丸尾末広さんはここで先生と呼ばれているようだ。

一人で本を読むのにも大分慣れてきた。
5時で閉店なので、河岸を代える。


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最近、ブルマン飲まないじゃないの?
店長さんに言われる。濃いんだったら薄く入れるよ。
いや、そういうんじゃなくて、ここに来た時に何杯目のコーヒーかということで、ちょっと注文が変わることもあるの…。
ふーん。と、コーヒーについて話し込む店長さん。
う、明日までの仕事が…。

しばらくすると下に消えた
かと思うとふっと現れて、はい、とコーヒーを置いていった。

泡立っているし。??? ブレンドでない、メニューにないの?
飲んで資料を読み終えて、ビスに自転車で走る。


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2008/05/09

peach-pitさんギャラリーにようこそ

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手書きのカード付きのお花をいただきました。ありがとう。

『Rozen Maiden』が集英社に移籍になって新装版が刊行された。
用紙の透過性を駆使して可愛くて、でもちょっとエッジが立った感じになっている。用紙の種類が限られる中、メジャーではコストのこともあって、なかなか紙を生かしたデザインがしにくくなっている中、素晴らしいデザインの本になっている。

『Rozen Maiden』は、変化を遂げた少女像…それは本来の姿なのだが…を時代に描いている。
全巻そろいで一気に再読しよう。

ギャラリーでお話しした後、銀座に行ったら、宝野アリカさんにあった。『Rozen Maiden』のオープニング曲を歌っている。
符牒。


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2008/05/09

ものを大切にしていると

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良いことがありますよ、ふふ。

自転車乗りの作家はそう言ってくれた。


ミゼリコルディアの展示を見ながら

人形は身体を抜いて視線を放つ。
修道院の食堂。

などと話をしているときにたまたま自転車の話になって…自転車どうしているの?
部品が一つ、また一つ、壊れていって、今ではばらばらになりそうですよ…。
でも大切にしているのは良いですよ。


話は支離滅裂に、そして人形の不思議について…。


その後、
夕方に銀座逍遥をしたときに後ろのタイヤが変だなと思っていたら、スローパンクチャー。空気がだんだん抜けていく。空気を入れたら、すこんすこんで入っていかない。パンク? バルブ?
自転車屋さんへ行ったら、チューブの全取っ換え、おお、ほんとに自転車がぼろぼろと壊れていく感じ。でも愛おしいかも。直して、また走る。


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2008/05/08

ヴァンパイアの子は

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ヴァンパイアの子は昨日、撮影に参加してお疲れの模様。今日は会場に出没しなかった。

人形の視線は僕を見ているようで見ていない。
視線は僕の身体を抜けて、彼方の何かを捕らえている。確信をもって。その意志のような煌めきに、少し蹌踉めく。


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2008/05/08

2年たつと

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PEACH-PITのお二人が

ビスに来てくれた。手書きのカード付きのお花もいただいた。
二人は人形をじっと見つめている。身体に視線が沁みていく。

昼に『更級』で手打ちそば、桜エビ、そして蕎麦ぜんざい。
はぁ、はぁと声を立てて練り込んだ蕎麦掻きは美味しい。口直しの飲み物が蕎麦湯に柚子皮を浮かべたもの。お洒落。

池之端薮も昔は、お茶下さいなどという人がいると、蕎麦屋にお茶はでないんです。お水か蕎麦湯でとたしなめられたものだ。蕎麦は仄かな味が勝負。お茶は舌の味覚を一瞬麻痺させる。番茶系なら大丈夫だけど…。今は池之端薮もお茶を出す。

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自転車で銀座へ向う。借りたお茶を買うために。途中、日本橋『ミカド』でモカソフト。久しぶりだ。甘味を抑えたか?気のせいか?

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紅茶を買って、ギャラリーを二つ見て、日本橋で休憩。今度は、イリー。

ビスに戻って作業をする。一日はまだまだ終わらない。2年たつといろいろなものが変わる。心も一クールを終える。
ほらね。やっぱり人は去っていく。2年なんて切れ目は関係ないよと言った人も、そんなことは知らないよと言った人も。
脳がそんなふうにできていると、脳学者はのたまう。

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2008/05/07

『毛皮のマリー』 主演・演出/川村毅 パブリック・シアター

呪縛から逃れる。
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この5月4日で、寺山修司が死んで25年になる。
寺山修司が死んで、時が止まっていると言ったら、嘘になるかもしれないが、亡くなられた時のことは、鮮明な感覚として残っている。寺山修司後を生きているという感は今も強い。

今回の『毛皮のマリー』は、森崎偏陸の企画で上演された。
偏陸は、『毛皮のマリー』の初演(1967年)の頃に演劇実験室・天井桟敷に入り、音響や映画の助監督、美術デザインなど、あらゆることで寺山修司の陰で右腕になってきた。「ローラ」という寺山修司の映画では、今でもスクリーンから裸体で飛び出すという役を演じ続けている。

毛皮のマリーを演じるのは第三エロチカの主宰・演出の川村毅で、
第三エロチカはたしか1980年頃の結成だと思うが、俳優としてもユニークな演劇人だった。よく第三エロチカを見ていたのは、新宿アートシアターで、狭い劇場に身体を斜めにして立ったまま(足の位置が床に描いてあってそこに足を乗せて、そのまま終演まで動けない)見ていた。面白かった。

ちなみに新宿アートシアターは飴屋法水の『グランギニョル』が、1984年に「ガラチア」85年に「マーキュロ」を上演していて、これも酸欠になりそうな客席で見て、時代が変わるなと実感した。寺山修司は1983年に死んでいるから、自分にとっても時代にとっても大きなオーバーラップが行われた時だったのだ。1984年はバブル経済の突端であり、ヨーゼフ・ボイスが来日した年でもあった。第三エロチカは「コックサッカーブルー」という代表作を上演している。

川村毅、8年ぶりの主演だということで、しかも寺山修司にオマージュを捧げると公言しているが、演技が古く、かつての新宿アートシアターなら名演なのだろうが、道具もミニマルにしたシアター・トラムの舞台では、ちょっと空回りしている。

僕は、寺山修司に言われた、上演こそすべて、戯曲には寺山修司はいない、という言葉がトラウマのようになっている。寺山修司の演劇は、天井桟敷の上演、寺山修司の演出あってのもので、それが他人の手によっては存在的に意味がないと、寺山修司に信じ込まされてきた。

もちろん演劇において、上演、演出というのは、印象のかなりの部分を占めるという常識は分った上で、やっぱり、ワークショップをやって動きを作りながら台本を書いて、当て書きをしていた寺山修司の戯曲は、寺山修司の一回性の上演ごとに、演劇を成立させてきた、その瞬間だけのものだと思っている。

それとは別に…。ようやく別にというスタンスを少しとれるようになってきた。寺山修司のもっている戯曲の、何かということは見ていきたいと思うようにもなった。それは山口小夜子さんが朗読パフォーマンスをしていたのが、寺山修司の詩であるということに関係している。
寺山修司は、短歌であり、俳句であると思い込んでいたので、詩と向き合うことがなかったのだ。生きた生体としての寺山修司が僕の中に行き続けているので、なかなかそこから逃れられないが、それでも、森崎偏陸や川村毅がトライしたように、戯曲をもう一度読むということは、寺山修司という現象と無関係ではないと、思えるようになるかもしれない。

「毛皮のマリー」は、たしかに女優を気取る男娼の耽美な部分に目が行きがちだが、嘘の母子という関係にこそ寺山らしさがある。寺山修司は、時代の表層を引用して、そこに生成している嘘らしさを、アフォリズムのように晒して見せた作家である。その見方自体に、寺山独特の表現があったのだが、川村毅の演技が空まわったおかげで、台本の構造が良く見えていて、僕には面白い体験だった。
呪縛から逃れることがそれほど良いこととは思わないが呪縛から逃れて見る。そんなことが少しできるようになるかもしれない。

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2008/05/06

ビスに兎さんが

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ビスに兎さんが登場

そしてもう一匹、兎さんが
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二人は黒色スミレの夜会に仕合わせを運んできてくれた。
アリスたち。

次々にアリスたちがここに遊びに来るのだろうか。
くるよ。
きっと。


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2008/05/05

ディプティク 野波浩

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野波浩さんが来訪して、トークショウとサイン会。トークショウはとても面白かった。
野波さんはストリート・フォトの感覚を基にして写真を撮っている。そんな意外な話が聞けた。

モデルも選ばない。それもとても分る気がする。向こうが選んだものには時代が入っている。

野波さんの初期写真集に『ディプティック』という二冊組みのものがある。ディプティクとは、二連祭壇画のことを言う。

双生の絵画。双生の人形。ここには双がたくさんあり、双がたくさん生まれる。二連ではないが、ファン・アイクの描いたゲントの祭壇画を思い出した。夜想の初期の頃、明けても暮れても混合技法のことを考えていた時期があって、ファン・アイクが大好きで、後に、ベルギーのゲントに見に行った。
黄金は色ではない。そんなことを一緒にセミナーをした川口起美雄に教わった。

野波浩はレイヤーを重ねて写真を作る。今でこそ、レイヤーだが、その原理は、ファン・アイクのころに作られた混合技法の透過層のシステムだ。いろいろなことが繋がって脳はナハトの闇で発光した。

見れば、恋月姫の『ミゼリコルディア』は、祭壇画そのものではないか。

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2008/05/05

さらにエルメ

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またエルメのマカロンをいただいてWGPを見ながら口にほうばる。

いただいたのは僕がエルメにはまっていることを知らない人で
美味しいものが広まるのはあっという間だ。もちろんブランドが付いてのことで、ふわふわのリンゴのドライフルーツがすぐに爆発的人気になるとは思えない。

でも美味しい。むしゃむしゃ。
リプトンの紅茶についていた、エルメとのコラボ、携帯ストラップ。
8種類…。どうにか手許に揃った。

欲望が踊らされる。もう少し自分が他の人たちのクリエイティブな欲望を喚起できると良いのだが…。

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