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2008/02/11

山本タカトサイン会

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お茶の番頭を務めた。60人分のコーヒーや紅茶を入れるのは楽しい。表現行為ではないんだけど、豆の粉の膨らみ具合や、お茶っ葉の群れ具合をチェックしながら、入れていく感覚は、充実感がある。
帰り際に、タカトさんたちと創作についてのいろいろについて立ち話をした。
創作というのは、
100%を目指して作業するけど、つい、過剰になったりもする。

それはどうしたら良いんだろうというような話。創作は、頑張るとすぐい102%とか103%という越えたあたりへすぐにはみだしていく。これは自分のことでもあるので、言いながら、ううむまだまだできないよなと反省のような自己批判のような気分。
もの作りの時、少ない失敗より、多い失敗を選びがちだ。
98%とかが開かれて感じで、良いのだろうが、意識して減らすのは、創造の神様から罰を受けるし、だいたい失礼な話だ。全力でやってちょっと足りないあたりが最高なんだが、そんなことはなかなか難しい。自分でも仕事は過剰にふりがちだ。
どうにかならないものかな…と。おそらく作る過程に目利きの人に止めてもらうのが良いんだろう。それも粋な感じでやることが大切なんだろうと思う。勢いづいて、調子のってやっていくのに水を差さず、なおかつ、ぴたっと、止める。
伝説の音楽プロデューサーの話を聞いたことがある。ちょっと話はずれるが、歌は歌い出しがすべて。美空ひばりの、レコーディングの何度も歌い出しをチェックして、OKと思ったらもうスタジオからいなくなっていたという。できるだけ手の跡を残さないのが、ディレクター、プロデューサーの妙技だ。ディレクターというのは自己主張しては駄目なんだと思う。あくまでも作家優先。でもさっと、触れるように仕上げたりする。そんなところには遥かだが、思いはあっても良いだろう。
そのチューニングの良さ、ぐっと、ぴたっと来る感じ、それを探して生きているのかもしれない。
お茶やコーヒーでは比較的良い線までいくんだけれどな…。

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2008/02/10

高原英里 山本タカト 東雅夫 そして…。

もっと、ずっと話していたかった。
タカトさんの少年についての話、高原さんの夜想への注文。

最近、『夜想』は完成形ではないような気がしている。ここを起点に、観客や作家が、そして自分自身がまた先へ向っていく、布石のようなものではないかと…。だからできあがった「夜想」にいろいろ言われたりするのはとても楽しい。
bisのギャラリーもあって、そして変化と一歩が踏み込めたら面白いなぁと思う。そういう変化が雑誌から起きたらなぁ。


東雅夫さんは上手にみんなの間をつなぐ、それでいて本格的な話。
吸血鬼の話をしているのだが、そこには幻想や耽美を嗣いできた作品や人のことが次々と出てくる。

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2008/02/09

お茶を入れたり、コーヒーを入れたり 

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久しぶりにお茶番頭をしようと、

マンデリン・ベースの豆とマリアージュ・フルールの『エロス』を買いに銀座に自転車を飛ばす。
浅草橋に戻って照明の準備と味見にコーヒーを入れる。

そうそう金子國義さんの展覧会に顔をだしたけれど、終始歌舞伎の話と、自分のステージの話し…。
またまた菊之助よかったよと…菊之助自慢。
アリスのお姉さんが暴れていた。金子國義さんもけっこうゴスだよな…。ねぇねぇ、世の中は何でこんなに気持ち悪くなっちゃうの?
と、耽美不足を嘆いておられた。

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2008/02/08

『ゴシックスピリット』(2007)高原英理

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颱風の日に拾った嵐が膝で寝ている。

読んでいるのは『ゴシックスピリット』高原英理。明後日、高原さんはbisに来訪する。
ゴスは完全に定着するんだろうな…。
考えていることがいくつかあって、ゴシックとホラーの境目のことだ。高原さんはゴスにホラーも耽美も含めている。寺山修司もゴスにつないでいる。80年代を現場で生きてきた自分としては、微妙な差異がある。この差異が面白いところだ。カルチャーが形成されている秘密が、この擦れにあるような気がする。


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2008/02/06

天野可淡

天野可淡のインタビュー映像を見ながら

ちょっとした衝動に駆られた。天野可淡『レトロスペクティブ』の特装本・刊行記念にbisで吉田良さんにお話しを聞いた。当時のインタビュービデオを流していただいたのだが、人となりはもちろん天野可淡の作品に魅入ってしまった。
人ともの、獣と人…一体となったひとがたは、きらきらとした存在感を放っている。人形に見られることはよくあって、こっちを見ている、とか、私を選らんだ視線…を体感する。天野可淡の綺羅とした目の視線は、鋭くこちらを射るのだけれど、無為である。返せない、載せられない何かが在る。対話の中で、天野可淡が時代を変えたと僕はいった。
感情を人形に出して良い、自分というものを人形で晒けてよい。次代の人形作家たちが可淡からもらったのは、人形という形式から自由になることではなかったろうか。会場で始めてみた作品の動画を見て、そしてずっと思い続けたのは、
確かに、可淡作品には、いろいろな面があって、感覚を解き放つように作られた作品もある。その作品が果たした役割は大きい。その他にやはり孤高の精神のオブジェに込めた作品があって、何かに達しようとする純粋さを感じる。造形の純粋さへ向う態度は、今、人形作家の中で少々忘れられている姿勢である。僕はそこに打たれた。現代美術でもそのままに評価されるだろう、造形力の力量、そしてまさに「ひとがた」と言える作品は、このジャンルの未来を示していた。

トレヴィルから可淡の本が三冊増補復刊されたが、それぞれの本について特装本が存在する。Amazonにはでていない。
関係が複雑なので、bisに来ていただければ現物を見ながら楽しんでいただけると思う。


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2008/02/04

碧のイリー・カップ

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ヤン・ファーブルのイリー・コレクション。

ヴェネチア・ビエンナーレで発表された『劇的狂気の力』1984年が、パルコ劇場で上演されたのは1986年のことだった。あの頃、コンテンポラリーと呼ばれる、美術や舞台が本格的に日本に入ってきた頃だ。1984年ボイスが来日した。今ある日本の現代美術がそこで懐胎した。東京芸大での学生対話集会では、司会を宮島達男が務め、実行委委員には長谷川祐子もいた。西武百貨店がノンプロフィットで撮影クルーを出し、僕もそこに参加した。撮影クルーには畠山直哉やポケモンを作った石原恒和などもいた。
ボイス来日の記録は、ペヨトル工房のボイス・イン・ジャパンに結晶したが、ビデオブックも本も余り売れなかった。でも種子を懐胎できたことが誇りだった。その2年後、ヤン・ファーブルは、『劇的狂気の力』を引っさげて来日するのだが、寺山修司などから噂だけを聞いていて詳細は分らなかった。ずっと演劇の人だと思っていた。
オープニングは強烈で、ミニマルな繰り返しの動作の中で、袋にいれたカエルを踏みつぶした。パフォーマンスは延々と続き、その余りのミニマルさに挑発されて、観客が舞台に向って、『おめらのやっていることは、最後までおみとうしだ。やめろ!やめろ!くだらない』と叫んで詰め寄ったりした。客席は出入り自由になっているほど上演時間は長かった。背景には美術の歴史的な作品がどんどん出てきて、それを否定するようなパフォーマンスだったように思う。最後にボイスの作品が出て、演者が「ヤン・ファーブル!」と叫んで終わる。パフォーマンスとしてもカッコよかった。それで舞台表現をやめるというのもカッコよかった。
その後、美術作品を中心に活動をし、舞台作品もまた作るようになった。
ペヨトル工房ではヤン・ファーブルの読本を出版した。

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2008/02/03

節分の夢見

珍しく、夢を見た。

信じられないくらいロジカルなことを考えていた。起きてメモをつけようとしたらすーっと雪空に消えていった。

無常について書かれたブログを読んだからかもしれない。本を読み解く素晴らしい能力を持っている人がいて、生き様によってそれが機能しないこともあり、それはちょっと哀しいことだ。哀しいといって余裕をかませている分けにはいかない。自分の方がもっともっと生き様や、結果によって、僅かしか与えられていない能力を発揮できないでいたりする。それでいて駄目だ、なんて思ってみたりする。それだから人間なんだと思うけれど。
感覚は正直にものの本質を伝えてくれるけど、しばしば生き様の影響を受けて、歪んでしまう。それを補償するのがロジックなんだと思うが、ロジックは最近、使い方を間違われているような気がする。僕も影響を受けている。自分の描いた結果から、逆算して使うロジック、結果の分ったゲームをするようなところがある。探偵小説は、逆算で成立している。逆算しないで書く純文学というジャンルもある。その両方を同じに扱ってはいけないだろう。
ロジックは見えない結果を類推するために使うものだと思う。
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嵐くんに鬼になってもらうとしたら、投げる前に豆を食べちゃうわ、居眠りをするわで、役にたちませんでした。


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2008/02/01

パン・オウ・ショコラ

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クリスチャン・コンスタンのパン・オウ・ショコラを絶賛したが、日本にも美味しいパン・オウ・ショコラはある。

ロワゾー・ド・リヨンのパン。フランス系の絶品のケーキ屋さん。そこのパン・オウ・ショコラはやはり美味しい。もちろんケーキも美味しくて最近ご愛用している。


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2008/02/01

イリー・コレクション

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イリー・コレクション。クネリスのカップ。

クネリスは、アルテ・ポーヴェラの大好きな作家。ドキュメンタでヨーゼフ・ボイスが結果的に挑発されて、クネリスの作品の前で黄金の王冠を溶かすパフォーマンスをした。ドキュメンタでクネリスは急遽、漆黒の色から黄金の色に壁を変えたからだ。国際展ではよくあることで、隣の作品を充分に意識して作品を設置する。だから国際展はカタログと出品作品が異っていることがよくある。
名古屋にICCがあって、南条さんや逢坂さんが活躍していた。
生きた馬を展示したクネリスが使ったギャラリーによく似た作りをしていたICCにクネリスが招聘されたのは当然といえば当然だった。作品は黒い壁ような迫力と野の花を飾る繊細さとのアンサンブルだった。『EOS』は、クネリスにインタビューを申し入れたが、イタリア語の通訳がなかなか’見つからなかった。たまたま取材に行っていた先で、若桑みどりさんが、私がやってあげるよとかってでてくださった。恐縮至極。若桑みどりさんのイタリア語は、日本語同様上品ではあるが、ちょっとべらんめい調だったのは気のせいだったろうか。
ご自分の聴きたいこともあったろうに、本当に通訳をしてくれた。こんな贅沢なことをしてよいのだろうかとドキドキしたことを覚えている。しかしまぁ、そうして若い人間は育っていく。育ったかな、ちゃんと…。若桑さん。


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2008/01/31

小町村芝居正月 国立劇場 2008年1月3日~27日

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菊之助が何かに邪魔されたりしなければ玉三郎に続く次代の女形になるだろうと、小町村芝居正月を見て思った。思ったという意志よりも先に菊之助の演技がそう確信させる。

歌舞伎は、その時々の座頭の演出や工夫を加える芝居だ。だから時に、ある名優の演技が目立つ用に変えたりもしている。陰で旦那芝居と言われる由縁だ。
長い間継承されてきたから守れ、駄目だという話ではない。どの部分が全体を考えてされた合理的演出か、どの部分が旦那の我が侭と自分の名演を見せたいがためにされた演出かを見極めないと、変更はできないということだ。
パリだから動く距離を減らしてこっちからでましょうよ、という演出はなしだ。そんな勝手をしたらさらに歌舞伎が壊れてしまう。
歌舞伎が現代も上演されているという部分で、現代演劇なら、役者の我が侭でない演出というものが生かされると良いだろう。もともと歌舞伎はそうしたものを含んでいる。変化のなかで混乱しているだけなのだ。
菊五郎劇団が、今から219年前の正月芝居『小町村芝居正月』を復活し上演した。復活とは言え、補綴されて新作に近いものになっている。菊五郎、菊之助という旦那たちを生かしながら、現代演劇として通用する演出もされていて、非常に面白い。猿之助のように新劇、宝塚手法を取り入れて(でも宝塚も元々歌舞伎手法だけれど…)見やすくするのも一つの方法だが、菊五郎劇団のように歌舞伎の伝統的な作法の中で、演出を統一させて現代劇とする方法もあるのだと改めて思った。この方法が生きるのは、蜷川幸雄の舞台でも好演した現代の役者としての菊之助の存在が不可欠ではある。
『小町村芝居正月』は、正月芝居にのっとって前半が時代物、後半が世話物の作りになっている。前半は菊五郎が活躍する。菊五郎さん、梅幸さんが生きておられた時は、やんちゃな次男坊見たいな感じで、劇団も斜めに見ていたようなところがあって、でもそれが江戸の遊び人風で、とっても素敵だった。最近は、お父さんとしての風があり、菊之助の冒険を座頭として支えてやる、という感じで、また味わいがある。あれっ?この芝居、菊之助の芝居じゃなかったけ?と前半、訝しげに思うほど、菊五郎さん頑張っているが、後半になるとぱっと菊之助に渡して支える方にまわる。『十二夜』でもそうだったけど菊五郎さん、菊之助さんが大好きなんだなぁ(演劇人として)とつくづく思う。
菊之助は、演出の目ももっているし、現代劇の前線で活躍できる役者だし、劇団をフルに使っても良いのだけれど、オーバー・ワークにならないよう、役者としての魅力を発揮できるよう、菊五郎さんがサポートしている(ような気がする)。


時代物と世話物の間に、『深草の里の場』という長唄舞踊が入っていて、これがまったりで絶品。松緑が進境著しく端正な踊りを見せ、元々踊り上手の菊五郎が少し気を入れて踊り、菊之助が菊之丞の振りよろしく抑え目のたおやかな、それでいて若さを感じる踊り。梅幸さんを少し思いだす。
一転、後半は、女郎狐の菊之助が大活躍の世話物になる。復活狂言なので、菊之助は先代の演技を倣うことなく自分の狐を演じることができる。菊之助は歌舞伎らしい狐の型だが、どこか色っぽく、そしてみずみずしい狐だ。市川猿之助が国立劇場で宙乗りを復活させ新しい狐・忠信を演じて一世を風靡したように、菊之助もまた平成の新しい狐演技を作り出したのではないだろうか。他の役の狐も見てみたい。無理難題だけれど、静、忠信を早替わりで両役つとめるとか…。とにかく見たい。女郎狐の早替わり、ほんとにおきゃんで美しく、久々、ほれぼれする役者演技に出会えた感じだ。
玉三郎の後は、菊之助で決まりなんじゃないだろうか。
女形は時代の匂いがしないと時代をとれないものだ。もちろんじゃまが入らなければの話だけどね。玉さんだってもの凄く、苦労したもの。


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2008/01/29

イリー・コレクション

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ほんとうに久しぶりに外に出て自転車で銀座に向った。
途中、日本橋に大きなイリイの店ができたのでエスプレッソを立ち飲みしていると、イタリア人の店長が流暢な日本語で話しかけてきた。

イリー・コレクションのカップは大好きで、クネリスとアブラモビッチを持っている。最近、ヤン・ファーブルを買ったなどと話していると、イタリアも物価が高くなって、日本人のブランド買いがめっきり減ったと。イリー・コレクションも買えないよとぼやいていた。イリー・コレクションは、現代美術の作家にエスプレッソ・カップをデザインしてもらうというもので、ヴェネチア・ビエンナーレとも関連している。これが思いきったデザインでとても面白い。現代美術がプロダクトと組む例は最近多くなってきたが、これは作家にも買う側にもかなり成功していると言える。ところでそのドゥカティ(Ducati)のバックいいねぇ、と店長さん。あ、これはTUMIとのコラボのバッグですよ。へぇ、ラインがドゥカティのバイクそのままだね。もしかしたらアートではないけれど、これも成功しているコラボかもしれない。では、またねと挨拶をして銀座の画廊に向った。


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2008/01/28

山本タカト展

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吸血鬼を描くために絵師になったとも思われる様なタカトの鮮烈な吸血鬼たち。タカト自ら言うように最も描きたかったテーマ。

描かれた吸血鬼からは時代が感じられる。昭和の初期に日本に懐胎された吸血譚は美しい怪物となってビスに取り憑く。
幻想の戦士たちが次々に身罷った世紀末に後裔は次の王国を築こうとしている。


ぜひ、今回の展示を見ていただきたいと思う。
と言うのは、前回のルーサイトの展覧会あたりから、タカトさんの絵の風が微妙に変化しはじめているからだ。一つは絵画の方向へ、もう一つはイラストレーションの良い感じへ、もう一つは、エロスのテーマで作られた映画や版画や絵画のモチーフを、タカトの作品として描いているものだ。挿絵画家が小説に絵を描くように、例えばクリムトの『接吻』が吸血鬼による接吻だったらとか…。
タカトはどの方向にも力量を見せていて、これからどうなるのだろうと、期待と好奇心が交錯する。一つに絞るということはないだろうが、一気に絵画的な作品に進むということもありえる。この様々な手法の見られる、そしておそらく未来を懐胎している今回の展示は、時代を見るにも、イラストレーションのこれからを占うにも重要なものになっている。

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2008/01/27

色川のオヤジさんは

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色川のオヤジさんは五代目。文久年間から続いている。でも仕入れるのも焼くのも客の相手もオヤジさん一人。

客が悪いからよぉ、駄目なんだよ。
これは良く言う、自浄努力をしないで責任転嫁する時の言い方だ。オヤジさんの店はひっきりなしに人が来て、事務所がすぐ側で様子を見ながら来ている自分でもしばしば入れないことが多い。だから満員何だけどちょっと不満。お客のよいしょとか、そんなのは全然、いらないし、まぁ、客が厳しくて切磋する自分、相互にできあがっていく部分というのがあると思っているのだろう。店は客が作るとも言っている。(そんなことはなくて店はやっぱり店主が作るんだけど、どう客を考えているかで大分、全体が変わり、ひいては自分に返ってくる。)厳しいっていっても充分に粋な感じで愛がないと駄目だしね。
客の悪いのは、味に関してだろうな…。味が分らないというのは、簡単な言い方だが、もっと言えば味を楽しめないということなんだろうな。自分勝手にじゃなくて、色川の鰻の味として楽しめるかどうか、ということだろう。蘊蓄も語らずに、ただ楽しむ。お、今日はこんな感じの鰻なんだ。鰻って、一匹ずつ味が違うからね。ふわっと人生とか、食べ物とか、楽しめるようになるのはいつなんだろうと思って、若い時代をすごしていたけど、なかなか。でもまぁ到達とか考えず、楽しむっていうことだ。でも味は分んなくちゃ駄目だよね。基本として。ね、おやじさん。


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2008/01/26

光はない

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タカト展のオープニングも無事に終わって、事務所のソファに座ったら睡眠をとっていない僕の頭脳は一瞬にして幕がおりた。
今から5年ほどの前にその頭脳は毎日のように深海を彷徨って僕にさまざまな悪夢を体験させた。

深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない。


大谷芳久が現代美術を展覧するかんらん舎をやめて始めたのは鉱石結晶の収集だった。その結晶を撮影してくれたのが畠山直哉。二人の結晶は『透きとおる石』(1997)という本になった。鉱物の隣に大谷芳久と僕はオマージュの文や小説の一部を記した。明石原人は大谷芳久が教えてくれて、そして心に滲みた歌を三首選んだのは僕だ。あと二首は

蒼空の澄みきはまれる昼日なか光れ光れと瑠璃戸をみがく
シルレア紀の地層は杳き(とほ)きそのかみを海の蠍の我もすみけむ 
                         明石海人『白描』
                         明石海人全歌集 (1978年)
歌が救ってくれた分けではないが、僕はどうにか深海から脱出して今、夜想とビスを動かしている。寝ている僕を起して『透きとおる石』をさし出した人が居た。僕も大谷芳久も植物結晶の純粋さに惹かれて、それは現代美術の不純性に嫌気をさしていた二人の共通感覚だった。

そのはずなのに僕も大谷芳久も人間の業で手の跡を残した。それが歌を選ぶことだった。鉱物は解釈なくそこに居る。だから写真集を組んだのではないのか、そして畠山直哉もそれに賛同したのではないか。本を汚した慙愧はずっと僕をとらえていた。「この本で明石海人を知ったんです」そう言われた時に、本は、鉱物とは別に一人分の仕事は果たしていたのだと心からほっとする思いだった。救われる気持ちになった。

自分に言いきかせることとして言うのだが、凄いもの、一流だと言われているものには実際そうでないものもたくさんあって、それを崇めている場合がある。しかし中には本当に凄くて面白いものがある。そうしたものまで一刀両断に切り捨てたり、無視したりしようとする傾向を最近目にする。あっていない権威付によって成立しているものを排除するのではなく、排除すべきは無為な権威付であって、そのものではない。埋もれているものもあるだろうし、権威付と別の見方によって魅力が発揮されるものもたくさんある。自分自身が良く楽しめるということも大事だし、出版をしているのだから良く楽しんでもらえるように限定をしないということも大事だ。

多く心が開くように。僕もそうした人やものによって救われてきた。だから…。

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2008/01/22

フランケンシュタイン+ヴァンパイア

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『フランケンシュタイン』メアリー・シェリーにも『吸血鬼』ポリドリにも、奔放なバイロンやシェリーに対する、ちょっとした嫉妬のような感覚は描かれている。でもちょっとだ。

悪意とか、見えないところ、閉鎖されたところで行われる陰惨な行為というものはまだ主流になっていない。基本はポジティブで愛である。悪意や陰惨な行為はそれを支えている部分を破壊することはあっても、破滅することはなかった。今、そうした行為は、破滅を含んでいるような気がする。自傷はふつう自己の破壊はあっても破滅はないと言われてきたが、ここにきて破滅という可能性もあるのだなと思う。その行為はなかなか防衛できない。防衛するという種類のものではないけれど。

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2008/01/19

『フランケンシュタイン』(1818)メアリー・シェリー

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メアリーが『フランケンシュタイン』(1818)を書くきっかけになったレマン湖での一夜は、1816年6月、そこにはバイロン、バイロンの愛人、シェリーのカップル、医者のポリドリがいた。この時、メアリー・シェリーは、まだ愛人であってシェリーには、妻ハリエットがいた。シェリーは、妻ハリエットを「霊の妹」としてメアリーと三人で暮らしたいと本気で提案していた。そして12月ハリエットは自殺する。

バイロンもまた妻から離婚を迫られつつ、クレアは妊娠中、そして姉との間に子供をもうけるというスキャンダルを抱えていた。
『フランケンシュタイン』のテーマは、思想や宗教に翻弄される家族愛であり、その苦しさ哀しさを描いたものである。フランケンシュタインの家族構成にも、怪物があこがれる家族にも、異母兄弟の純粋な愛が描かれている。バイロンやシェリーの奔放な生き方に翻弄されるシェリーの女性としての思いが強く反映している。
フランケンシュタインは、錬金術を学びさらに産業革命以降のイギリスの自然主義的な思想や科学万能主義に影響され、科学研究に打ち込み生命を作れるようになった。フランケンシュタインによって生まれた怪物は、次々にフランケンシュタインを愛するものたちを復讐のために殺していくが、その間に、言葉を覚え、小説を読み、思想を身に付け、愛を知るようになる。
怪物の苦しみは、怪物の哀しみと一言で言えるような苦しみではない。怪物は言葉と理性を獲得していたからだ。フランケンシュタインも運命の罰を受けるように、生き続けながら苦悩をし、一人ずつ愛するものを怪物に殺されていくのである。
メアリーは体験を色濃く反映しながら『フランケンシュタイン』をロマン主義的な筆致で上品に描いている。

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2008/01/18

ヴァンパイアの薔薇

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贄の少女たちがが、恋月姫・アンジェリコのシスターたちに救済されて、エドはまた独りになった。
昏いナハトの中で次の季節を待つ。4月にはまたビスクの新しい子たちが訪れる。誰も見たことのない。

また表情から何も伺えなくなった。贄の少女たちをさらってきたときは、ヴァンパイアらしく血を吸い頬が日に日に薔薇色に染まっていった。その正直な行動が少し可笑しくもあった。
いまエドの顔は再び死人のように蒼く白く澄んでいる。僕は毎日一本薔薇を捧げることにしてい。朝になると薔薇はからからのドライフラワーのようになっている。萩尾望都の『ポーの一族』のごとく薔薇のエキスを吸っているからに違いない。薔薇のエキスは本物ならばもっとも高価である。抽出率がわるからだ。そして色は赤くはない。透明なねっとりとした重さをもっている。

エドよ次に目覚める日は?

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2008/01/18

『フランケンシュタイン』(1931) ユニバーサル

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最後は火炙りなのか…。原作の氷の果てに消えていくシーンとは少し異るな。

1931年はユニバーサルのモンスター元年。ベラ・ルゴシ主演の『魔人ドラキュラ』(1931)が成功を収めると、すぐに『フランケンシュタイン』(1931)が作られた。ドラキュラで異彩を放ったレンフィールド役のドワイト・フライがフランケンシュタイン博士のせむしの助手役、博士の友人のワルドマン博士に、バンヘルシング役をしたヴァン・スローンが演じている。二人とも迫真の演技。特にフライは不気味な怪物性を発揮している。ベラ・ルゴシがフランケンシュタイン役を断ったために、ボリス・カーロフが抜擢された。下済み役やだったカーロフは大抜擢にもかかわらず、そしてくせ者俳優たちに囲まれても臆することなく堂々と演技をしている。言葉の怪物の喜怒哀楽を見事に演じている。ふと歌舞伎役者の市川左団次に似ていると思わせるところがある。(予断だが市川左団次、坂東玉三郎主演の『天守物語』で鬼の役を好演している)
フライもスローンも主役達を食う勢いで、役者の演技だけを見ていても楽しめる。原作の言わんとするところからはすでに離れているが、映画にはオリジナルの物語があって作品としては『魔人ドラキュラ』よりも上かもしれない。口の利けないモンスターを物語に絡めていくのはなかなか難しいが、最初にして成功しているのは、役者たちの起用があたっているからだろう。

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2008/01/17

初雪だ

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はらはらと雪舞う気配に自転車を走らせ浅草寺まで。着いて夜空を見上げるちょうどまた雪が降ってきた。
春信に描かれた江戸美人、浅草寺裏の楊枝屋の娘本柳屋お藤が、夜毎、浅草神社のお狐のあたりを歩いていたかもしれない。そおっと浅草神社の今戸焼の狐のあたまをつるんと撫でた。

   

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2008/01/16

『ドラキュラ血のしたたり』(1971)ハマー・フィルム

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『ドラキュラ血のしたたり』(1971)
双子の姉妹、マリアとフリーダのスチール写真を見て反応する人は多い。双子には何かしらの神秘性がある。

双子の姉妹は、メアリー・コリンソンとマドレーヌ・コリンソン。『プレイボーイ』1970年10月のはじめての双子のプレイメイト。ハマーらしいお色気のために起用され、文脈なく下着を脱がされたりしている。フリーダは奔放で、吸血鬼のカルンシュタインに惹かれて吸血鬼にされてしまう。マリアは貞淑で真面目である。
16世紀の英国が舞台で、幕開けからいきなり魔女狩りがはじまる。清教徒のグスタフ(ピーター・カッシング)が魔女狩りを行っている。吸血鬼の物語がはじまるまえに、グスタフの魔女狩りがあって、それが吸血鬼狩りにオーバーラップしていく。魔女狩りに証拠があるはずもないのと同じように、吸血鬼らしいとなると火炙りにしよとする。姪のマリアをフリーダと間違えて火炙り寸前にまで追い込む。
グスタフは妻に「あなたは何も分っていないわ。殴るの?」「分らない。罰は必要だ。私がどんな気持ちで…」とグスタフが言うとこんどは妻が「分らないわ」と返す。権威をかさにきた男性的な強引さにここではっと気づくグスタフ。
昔の英国の感じがでていて面白い。ピーター・カッシングは実際にも敬虔なクリスチャンで、グスタフの役柄を真摯に演じていて、ともすればエロス+ホラーだけになってしまいそうな展開を、下支えしている。
『ドラキュラ血のしたたり』(1971)は、『ヴァンパイア・ラバーズ』『恐怖の吸血美女』というハマーの『カーミラ』(シェリダン・レ・ファニュ)を原作にする3本目のフィルムであるが、もちろん物語は踏襲していない。カルンシュタインという名前が使われているくらいのことである。

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