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2010/09/13

表に出ろい! 野田マップ番外公演


野田秀樹役者として巧すぎる。勘三郎のアドリブ嵐を受け止めて、返しているじゃないか。
変えてしているだけじゃなくて、一撃を加えたりもしている。

歌舞伎座の勘三郎公演に、役者としてでる。というのはどうだろう。台本も野田秀樹で。
で、演出は、うーん。思い切って蜷川幸雄とか。

歌舞伎に『お江戸みやげ』という演目がある。江戸に行商にきた二人のおばさんが、役者に入れあげて、でもその役者は自分の駆け落ちのためにおばさんを利用して……というもの。二人のおばさんを演じるのは宗十郎と芝翫だった。川口松太郎の脚本で喜劇で人情噺。騙されたと知っても良い夢を見させてもらったよと許すというラストの件が客をほろっとさせる。
『お江戸みやげ』書き物で、限りなく普通の芝居に近い。歌舞伎の役者が歌舞伎の枷からの逃れるとこんなに巧いものなのかと舌をまいた。宗十郎さんは俳優祭でも天才的なトリックスター的演技を見せる。珍しく喜劇ができる歌舞伎俳優だ。で、宗十郎さんは分るとして、あの真面目な芝翫さんまでが、宗十郎さんに遅れをとることなく、その真面目な演技のままに客を笑わせたり、泣かせたりする。歌舞伎というのはほんとうにとんでもない芝居だなとつくづく思う。

役者の喜劇力、客を笑わせるやりとりに驚いたのは、それ以来だろうか。確かに新感線も古田新を筆頭に笑わせることには一芸ある。それでも新感線は役者と台本と演出との絡んだ演劇の仕組みを使って笑わせているのだ。ここのやりとりで客が笑わなかったら、それをネタにして、ほら野田さん、演劇やったらドン引きになるって言ったじゃない、だから嫌だっていったんだよ…なんて切り返しでそのこと自体を笑いにしてしまう。役者同士の呼吸と間合いで役者の地力に驚いたのはそれ以来だ。
勘三郎がうまいのは分っているが、野田秀樹の役者っぷりも巧い。夢の遊眠社のときよりも役者として巧い。夢の遊眠社の役者の巧さは当然で、かれの身体感覚が拡大されたものが劇団だったからだ。(今の野田マップも少しその傾向がある。それは演出としては余り好きじゃない)勘三郎とのガチの役者バトルで、一歩も引かない、引かないだけじゃなくて勘三郎をたじたじさせたりする。凄いな、という位の役者力量だ。笑わせるという演技ではなく、二人が舞台で真剣に馬鹿なことを演じているのを、見たら面白いでしょうというやり方である。その真剣度合、馬鹿になり度合いを、舞台の上でやりとりしている。

野田秀樹の世代は、少年性に対する執着が合って、いつまでも若者の感覚を持っている、あるいは分る人でいようとする。若い子が使う言葉や、感覚を演劇に描き込む。10年ほど前に書いた野田の『農業少女』ではとどいていなかった若者感覚に、『表に出ろい!』は、だいぶ肉薄しているの。でも能書きを垂れるところが少し合って、それがなければなぁと思うところもあるのだけれど、それだと野田演劇にはならなくなってしまうんだろうなとも思う。
日本の演劇が芝居からなかなか脱却できないのは、おそらく野田秀樹や中村勘三郎がとてつもなく役者であるからで、究極それで成立してしまいそうに思えるからだ。システムで集団表現するのが不得意な…F1だってオーケストラだって…国は、おそらく世界的という支点の中ではアジアの中でも一気に置き去られてしまうんだろうな。あ、そうそう現代美術もね。


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2010/09/07

田村秋彦個展 & 綺朔ちいこ個展

SBSH0274.JPG

狼がショウウィンドウに鎮座した。
鎮座じゃないかも。
吠えてるぞ。抱いてみたら、暖かみがある。

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2010/09/03

展示のコンセプト みつばち展

コンセプトのある展示

まったく余談だが、アートコンプレックスのエルンスト、シュヴァンクマイエル、上原木呂展。
上原さんが余りにシュヴァンクマイエル、大好きで作品がシュヴァンクマイエルに寄りすぎている。コピーか? と思えるほど。舞台風な展示は誰の作かちょっと分らない。
三人が何故、一緒に展示されているか、どうバランスをとって三人の作家展としてそれぞれを立てるか。
そしてこの展覧会のテーマは何か、ちょっと見えてこない。
ディレクター、プロデューサーの意図があって欲しい。

でも世の中の主流はどちらかというと、作品が見えれば良い…。そんなところに作家も、観客も落ち着いている気がする。

展覧会なんて無駄よ、ただ人形がよく見得るように並べればいいの。別に、展覧会場じゃなくても、自分のアトリエで見せて販売できればいいの…そういう人形作家もけっこういて、コンセプトのある展示はもちろん、展覧会自体もたいして意味がないという言い方をする作家も多い。 観客も、買いやすいように見せてくれたら良いのに、変に凝ったりすると、見にくいから…と言う人もこれまた多い。

ティム・バートンが[アリス]を公開したから、アリス展などとこじつけたような展示をしてもそれは充分企画であると、作家にも、観客にも思われているような現状では、コンセプトを打ち出すのは本当に無駄かもしれない。無駄かも知れないが、パラボリカ・bisでの展示は、展覧会の企画性を高め、それを具現化しようとする。企画やコンセプトは、作家自身が強く望むこともある。

みつばちさんの仕込みをしているが、みつばちさんも可愛くて綺麗な、ファッションドールに込めていた、いろいろなものを吐露するようにして会場を構成している。 創作人形で出きること、ファッションドールで出きること、それは何なのかを見極めようとする展示にもなっている。夜想としてはどうしてもコンセプトのきちんとある、そして企画性のある、そしてそれを分るように展示することを続けていきたいと思う。たとえ無駄だと言われても。


Dolly*Dolly Vol.26 手から生まれる布のお人形 (お人形Mook)


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2010/08/16

i-pod 〈4〉 猿田博士

猿田博士の実験室


iPadをメディアシミュレーションとして使っている。
欲望のままにi-podを使ったらどうなるのか、というシミュレーション。
その時の欲望というのは、時代のとか、今のとか
いう感じ。
欲望自体もシミュレーションする。

iPadを買った。iPadの魅力のままに使うとどんなになるのか。たとえばコンテンツをたくさん入れて、外で読みたくなるとか…。そのときのコンテンツは小説なのかアニメなのか映画なのか、漫画なのか。マンガなのか。

iPadをもっていることで、今までもっていなかった欲動が起きるとしたら…

映画を見たり、本を読んだり、本屋に行ったりという欲動は、今や、別のトリガーによって起きることが多い。本が読みたいから本を読むのでもなく、ちょっと脇にある何かが行動を引っ張るのだ。そういう風になってしまっている。
もちろんボクも。

付録が欲しいから雑誌を買う。そんな欲動ではない気がする。昔は…。ダイレクトだった。『少年』や『冒険王』の付録はホントに欲しいものだった。100万人がもつ付録って、それをもって歩くって…。

付録が目的なんでしょ? って聞くと、必ず雑誌も可愛い特集しているからって答える。少しくらい高くても安全で美味しいものが欲しいって答えるのと同じ。アンケートは、欲動を真っすぐに反映していない。もちろん付録ダイレクトに向っている訳でもない。

何でヒットするのか、ヒットしているのか。という現象の分析。
ユニクロが何故売れるのか? みんなおんなじものが好きなんだ。日本は世界最大の共産国だから?…。で、突然、今年、売れ行きが止まったのは?

iPadはメディアだからユニクロや雑誌の付録以上に気にかかる。
どういうふうに変化が起きるのか。

10年ほど前、畠山直哉がフィルムがなくなる日というワークショップを行ったときにたちあったことがある。その時、思った。写真家が困るほどには、フィルムはなくならないだろうと。

でもなくなった。

ペヨトル工房を解散する2年前、津野海太郎と「本が無くなる日」という対談をした。心の奥底ではまさかねと思いながら。自分は残れると思っていた。
生意気だけれど。

i-podがでて、今、出版関係者はどう受け止めているだろうか。
はっきりは見えてこない。
でも何かをしないと、まずいという予感はする。
何かアクションをして方向性が止められるかどうかは分らないが、
話しは飛ぶが…昔、野田秀樹が、批評家はいらない、一人のミーハーがいれば良いということを朝日ジャーナルで書いた。

朝日新聞のジャーナリストはそれに従った。ずっと野田秀樹のきちっとした批評は書かれていない。新聞は野田を時代の旗手として褒め続けた。
野田秀樹は今、きちっとした批評のなくなった現状に少し苦しんでいる。ネットで書かれる風評が評価を決める、こんな馬鹿なことはないと、芸術監督就任にあたって声を大にして訴えた。

野田さん、それはあなたが始めたことです。

でも、それに対してアンチを言わなかった、周辺がもっと悪いんですけどね…。

野田秀樹の演劇の内容が問題ではなく、野田秀樹の演劇的戦略が問題だった。
何かを言うことで、変えられることもあるかもしれない。
そう思う。

さて、予測と欲望。
iPadは、2バイト文化圏でない日本では、小説を読むリーダーとしてでなくマンガを一気読みするリーダーとして機能するかもしれない。それが最初の印象だ。

iPadで何を読みたいか、マンガだとしても。
ノイズの情報も入ってきて、それに影響をされながら、読んでいく。

たとえば、蜷川幸雄演出の『ガラスの仮面』を見たら、ちょっと読みたくなってネットで買って一気にダウンロードする。で、読む。そんなこと…。

先ず、最初が『二十世紀少年』そして引きついで『PLUTO』。そこから『鉄腕アトム』へと読んでいって…とやっていたら、
8月20日からパラボリカ・bisで展覧会をする[未来のイヴ - 機械仕掛けの幸運 - Sabotage展]のテーマが猿田博士だと…。

手塚治虫『火の鳥』をダウンロード。
人形ができる前、ロボットができる前、人は人間を作ることを妄想した。産業革命で機械が一気に発達した機運も合わさって、機械で人間が、機械と人が一緒になった生物が、…創造できると、思ったのだ。

そこに今、興味が帰りつつある。
予感。
だけど。

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2010/08/16

i-pod 〈4〉 猿田博士

猿田博士の実験室


iPadをメディアシミュレーションとして使っている。
欲望のままにi-podを使ったらどうなるのか、というシミュレーション。
その時の欲望というのは、時代のとか、今のとか
いう感じ。
欲望自体もシミュレーションする。

iPadを買った。iPadの魅力のままに使うとどんなになるのか。たとえばコンテンツをたくさん入れて、外で読みたくなるとか…。そのときのコンテンツは小説なのかアニメなのか映画なのか、漫画なのか。マンガなのか。

iPadをもっていることで、今までもっていなかった欲動が起きるとしたら…

映画を見たり、本を読んだり、本屋に行ったりという欲動は、今や、別のトリガーによって起きることが多い。本が読みたいから本を読むのでもなく、ちょっと脇にある何かが行動を引っ張るのだ。そういう風になってしまっている。
もちろんボクも。

付録が欲しいから雑誌を買う。そんな欲動ではない気がする。昔は…。ダイレクトだった。『少年』や『冒険王』の付録はホントに欲しいものだった。100万人がもつ付録って、それをもって歩くって…。

付録が目的なんでしょ? って聞くと、必ず雑誌も可愛い特集しているからって答える。少しくらい高くても安全で美味しいものが欲しいって答えるのと同じ。アンケートは、欲動を真っすぐに反映していない。もちろん付録ダイレクトに向っている訳でもない。

何でヒットするのか、ヒットしているのか。という現象の分析。
ユニクロが何故売れるのか? みんなおんなじものが好きなんだ。日本は世界最大の共産国だから?…。で、突然、今年、売れ行きが止まったのは?

iPadはメディアだからユニクロや雑誌の付録以上に気にかかる。
どういうふうに変化が起きるのか。

10年ほど前、畠山直哉がフィルムがなくなる日というワークショップを行ったときにたちあったことがある。その時、思った。写真家が困るほどには、フィルムはなくならないだろうと。

でもなくなった。

ペヨトル工房を解散する2年前、津野海太郎と「本が無くなる日」という対談をした。心の奥底ではまさかねと思いながら。自分は残れると思っていた。
生意気だけれど。

i-podがでて、今、出版関係者はどう受け止めているだろうか。
はっきりは見えてこない。
でも何かをしないと、まずいという予感はする。
何かアクションをして方向性が止められるかどうかは分らないが、
話しは飛ぶが…昔、野田秀樹が、批評家はいらない、一人のミーハーがいれば良いということを朝日ジャーナルで書いた。

朝日新聞のジャーナリストはそれに従った。ずっと野田秀樹のきちっとした批評は書かれていない。新聞は野田を時代の旗手として褒め続けた。
野田秀樹は今、きちっとした批評のなくなった現状に少し苦しんでいる。ネットで書かれる風評が評価を決める、こんな馬鹿なことはないと、芸術監督就任にあたって声を大にして訴えた。

野田さん、それはあなたが始めたことです。

でも、それに対してアンチを言わなかった、周辺がもっと悪いんですけどね…。

野田秀樹の演劇の内容が問題ではなく、野田秀樹の演劇的戦略が問題だった。
何かを言うことで、変えられることもあるかもしれない。
そう思う。

さて、予測と欲望。
iPadは、2バイト文化圏でない日本では、小説を読むリーダーとしてでなくマンガを一気読みするリーダーとして機能するかもしれない。それが最初の印象だ。

iPadで何を読みたいか、マンガだとしても。
ノイズの情報も入ってきて、それに影響をされながら、読んでいく。

たとえば、蜷川幸雄演出の『ガラスの仮面』を見たら、ちょっと読みたくなってネットで買って一気にダウンロードする。で、読む。そんなこと…。

先ず、最初が『二十世紀少年』そして引きついで『PLUTO』。そこから『鉄腕アトム』へと読んでいって…とやっていたら、
8月20日からパラボリカ・bisで展覧会をする[未来のイヴ - 機械仕掛けの幸運 - Sabotage展]のテーマが猿田博士だと…。

手塚治虫『火の鳥』をダウンロード。
人形ができる前、ロボットができる前、人は人間を作ることを妄想した。産業革命で機械が一気に発達した機運も合わさって、機械で人間が、機械と人が一緒になった生物が、…創造できると、思ったのだ。

そこに今、興味が帰りつつある。
予感。
だけど。

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2010/07/19

蝶はあなたの

SBSH0201.JPG

紋白蝶がふらふらと
地下鉄の中を舞っている。

乗客はみななんとなく心配げに見ている。
誰か、乱暴者が来て殺したりしないだろうかと。

うまく外に出れば良いのに
みんな目がそう思っている。

蝶は僕の靴の上に止まって動かなくなった。

昔、百軒店の
江戸時代に墓地のあった
その上に建てたマンションで
仕事をしていたことがあった
真夏の暑い日に揚羽蝶がブラインドに引っかかって
それから魔に取り憑かれる日が続いたことがあった。
もちろん魔に取り憑かれたのは僕ではなくて同僚だったが。

同僚は仕事を休んで関ヶ原の寺院に籠もってしまった。
蝶には死者の匂いがする。誰だか確かめないと…と言っていた。

僕の靴の上の蝶は
それっきり羽ばたくことを止めてしまった。
今日は、最初の真夏日。

猛暑が東京を襲っていた。
亡くなったのは
誰?

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2010/07/16

鬼っ子が新宿の虚空に舞う

林美登利+清水真理

マルイワンの一階にある『カイジューブルー』というお店のショーウィンドウに企画を頼まれて、一も二もなく人形を展示することにした。清水真理さんと林美登利さんの人形。林さんは少し前にパラボリカ・bisで展示をしている。

可愛い鬼っ子が宙に舞った。これから一ヶ月、新宿の魔を一身に集めて『カイジューブルー』は、パワースポットになるだろう。

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2010/07/13

iPad〈3〉 F1

ようやくiPadがとどいたので借りていたiPadを返して
さぁアプリは何をいれようか。

F1かなぁ。
リアルタイムで全車の位置が分るしラップチャートも出る。

週末はiPadF1だ。
ベッテルは、ウエバーの呪縛から逃れられるだろうか。
何か特別なものがない限り、今のベッテルは、予選でもレースでもウエバーを越えられない。
勝利ってすごいものだな。ウエバーが一変したもの。

ロズベルグに勝てない
シューマッハが自分用のマシンを作らせて(あるいは車体を入れ換えさせて
ロズベルグに勝としてまぁ部分的に成功したが
ベッテルにそんな手はないしな…。

ロス・ブラウンとしてはそれでもロズベルグはこなすと思っていたんだろうけど
ちょっと時間がかかっている。
でももう車にも慣れてこなしてくるだろう。
さて楽しみだ。

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2010/07/12

iPad〈2〉 よげんのしょ

+
ともだちの正体は最後のコマまで謎のまま。そこまでにともだちの正体を予感させる伏線もない。『二十世紀少年』が探偵私小説ならまさにかなりのルール違反だ。でも『二十世紀少年』は、ともだちが誰であるかという謎解きの物語ではない。
少年の夢がどうなってしまったかの顛末記だろうし、しかも描かれているのは、記憶がずれたから、今、こんなことになってしまっているという忸怩たる思いだ。謎の主導権を作家が握っていてもしかたがない。ラストに読者のみなさんと駆け抜けた科学で冒険な日々は永遠に…というメッセージがあるけれど、そこに引っかかってはいけない。

少年の夢はかなわないもの。夢は、記憶の中で擦れていって都合の良いものに変わる。あるいは不気味なものに成長する。そして昔、俺もやったもんだと不良を自負するオヤジたちは、夢を捏造する。よげんしょを書き換える。
意識されていない捏造もある。夢や思い出が記憶の中でどうずれてしまっているか…その記憶追尾の軌跡が『二十世紀少年』だ。
最後にケンジが、みなの記憶を修正して謝ったから、コピーのコピーのよげんのしょの最後が実行されなかったのだ。でないとさらにともだちが登場する可能性がある。書き換えられた記憶こそが現実であり、未来を描く悪夢なのだ。
それは今、ロック少年やマンガ少年の夢を食いつぶして二十世紀の終末を形成したオヤジたちの醜い現実である。

++
記憶を問うこと、それはi-podやiPadを手渡されてしまったボクたちのある種の宿命なのかもしれない。オヤジになったもの、あるいは二十世紀に少年だったものたちの。
『二十世紀少年』は、少年マンガ、男の物語の顛末である。ここに少女マンガは含まれていない。たった今、10代の少年がiPadやi-podを手渡されれば、アーカイブを満載している世界をそのように認識できる。世界はそのように存在する。
20世紀の半ばからメディアの新興とともに生きてきたボクたちは、そうはいかない。自分の記憶なかにある体験とアーカイブを突き合わせてみないと現実を認識できないのだ。再確認、再構築を余儀なくさせられている。
でないと擦れた記憶の妄想を現実として生きることになる。それは悪夢のような現実なのかもしれない。

+++
手塚治虫の漫画をリメイクした浦沢直樹の『PLUTO』も記憶の擦れがテーマになっている。浦沢直樹のライフワークは記憶の擦れなのかもしれない。
『鉄腕アトム』は『少年』に連載されたが、月刊誌の『少年』や『冒険王』を買ってもらえたのはお金持ちの子だった。付録の多い、正月号はお年玉で無理をしてかった。甥っ子の家には『少年』のバックナンバーも『鉄腕アトム』の単行本も全部揃っていた。一年に一度、正月に甥の家を訪れると、ボクはマンガの本棚から一時も離れず、食い入るように貪るように読んでいた。
それなのに浦沢の『PLUTO』を読んだとき、アトムはこんなことを描いていたっけと意外に思った。原作の「地上最大のロボット」を読み直すと、昔、本棚の前で身動きすらしないで読んでいたあの時の状況を含めて、コマ一つ一つの感動が甦ってくる。
イメージの擦れはどこで起きたのか。おそらくTVアニメの勧善懲悪の非常に収まりの良いアトム像に原作の感動がオーバーラップされたのかもしれない。原作に感動して、記憶に鮮明なのにアトムはアニメのアトム。この不思議な擦れ。
浦沢直樹はアニメのアトムをクリティカルに見れたんだ。それは世代が少し擦れていることのよるのか、浦沢の目がきっちりマンガ的だったのか。
ボクはただただ、マンガやアニメを享受していたんだ。

++++
『二十世紀少年』を組み込まれてボクの手にあるiPadを操作しながら思うのは、記憶とアーカイブを付け合わせるために存在するのではないかという印象だ。
再検証するツール。そしてアーカイブ自体も、アトムの連載中のスキャンなのか、一回目の単行本なのか…それによって作品を読むという行為は変化する。
今、iPadによってもう一度、作品そのものに向かうことができるのではないかと思う。作品の印象は、どう作品を売り出すかということで決まってくる。作品そのものを純粋に読むということは稀である。(優れた読み手、目利きはそれができるだろう。子どもの浦沢が「地上最大のロボット」をきちんと読み解けているのは彼がマンガの申し子なんだと思う。

+++++
i-podがデータを余り劣化させないで手許に持ち込んでくる装置だとしたら、iPadは実は、源素材がどうであったか、そして途中こんな風に加工されて、そして今、見るとこうなるという経過を知りながら、作品そのものに再び出会う装置なんだと思う。
だからどのデータをオリジナルにするのか、それをどう編集するのかということが必要なメディアなのだと思う。少なくとも『二十世紀少年』が漫画に対してもっているような自己検証のクリティカルな態度をもっていないと、iPadはとんでもない劣化コピーの装置になってしまうだろう。
編集なしで一番お手軽な文庫本からスキャンしたデータが売りに出されているが、それは違法のスキャンと大して変わらない。もしかしたら愛がないぶん、もっと駄目かもしれない。
メディアは使い方も使う目的も定まらないまま、ふっと目の前に登場する。どうつかいこなすかによって紙の本と共存できたり、紙の本の魅力を強化できたりできるはずのiPadが、単なる劣化コピーと編集なしのだらしない端末になってしまった時、紙もその影響を受けて本当に消滅するだろう。
本は、その価値を分らない意識によって滅ぼされるのだ。

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2010/07/11

iPad〈1〉 二十世紀からはじめる

ブログを廻っていたら、モデルの女の子がi-padに『二十世少年』を入れて読んでいるのに出会った。iPadの向こうには田園の風景が見えていた。のんびりしている時はiPadでマンガを読んでいます…ハーブティーを飲みながら…

それを見ながら、まず何を入れるかでi-padの先行きが決まるのじゃないかとふと思った。何の根拠もないけれど。今年は、電子書籍が紙の本を駆逐する元年だと言われているが、i-padがそれをするともできるとも思えない。ただはじまっている紙の本の衰退を典型的に見せつけることになるだろう、そして一層の変化を助長するだろうと思っていた。
しかし予想外のことも起きるかもしれない。何かにドライブがかかるということもある。それは意外と何のコンテンツから触るかということによる。3Dの好きな人は3Dのプレゼン用に使うだろう。趣味がかなり決まっている人ではなく、気になるのは何となくiPadを買ってしまった人たちのことだ。その動向は何かを作り出すかもしれない。
新しいメディアの頭脳になんの記憶を入れるのかは重要だ。青空文庫は黴臭いから嫌だ、というi-padユーザーの書き込みを読んだが、僕は青空文庫からはじめて、これを機会に全作を走破するだろうと思っていた。小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』夢野久作の『ドグラマグラ』も入っている。幻想三大奇書の二つが収容されている文庫って素敵じゃないか。新青年時代の、そして小説が確立せず海外作品をパクったり翻案したりしながら、それを貪るように読んでいた時代の日本が透けて見える。
『二十世紀少年』なのかも、と囁くもう一人のボクもいる。まだ注文したi-padがとどかないので、ともだちに電話してみた。二日ぐらいなら貸してもいいよ、仕事が忙しいからと、ともだちは、わざわざ事務所までもってきてくれた。
i-padの最初の記憶メモリーを他人にまかせるのも面白い。もともと必要が高じてできたメディアではない。向こうから来るメディアをさらに向こうの思惑通りに使うのも悪くないと思った。ともだちのi-padには『二十世紀少年』が入っていた。あとは青空文庫全巻。『二十世紀少年』は、映画もマンガもまったく触れていなかった。ちょうどよい。二十世紀からはじめよう。
この原稿は読みながら書いている。最初と最後で思っていることが変化するかもしれない。読みはじめてすぐに『20世紀少年』は、漫画とテレビとともに生きた少年たちの夢の顛末物語なのだと予感した。夢の顛末かぁ…もしかしたら漫画の村上春樹、野田秀樹になってしまう可能性もある。夢をどう描くか、顛末の郷愁をどうするかで、夢自体を売り渡してしまうこともある。そんなことになるなら夢は空き地に埋めておいたままの方が良い。オカルト的な宗教を描きながら、二十世紀少年自体が夢を食い潰すカルト物語としてに作動する可能性もある。

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2010/07/01

宮西計三+薔薇絵

            もう見えることができないかもしれない現在形の頽廃。

昔、年下の友人が、頽廃って歌右衛門が鼻水を垂らしながらでも舞台に立ち続けるっていうことでしょう、と質問だか自問だかどちらの調子で言ったのか、今は覚えていないが、鼻水の歌右衛門が強く頭に残っている。歌右衛門を見はじめたのが遅かったので、言われるような名演技は見ていないが、妹背山婦女庭訓の定高を、前から三列目、花道脇の席から見上げたことがあって、確かにそうかもしれないというぎりぎりのシチュエーションだった。三階席や二階席、あるいは一階の後ろではもう感じれなくなっている、歌右衛門の演技するオーラを浴びた。全力で演技をしている歌右衛門は、まさに鼻水を垂らしそうな体力の衰えを隠しもしなかった。演技をするために恥ずかしくなっている身体を隠さない。晒したままにする。身晒れ(みしゃれ)という言葉があるが、まさに骸骨になってもかまわないいま、この演技さえすればという執念を感じた。
歌右衛門の晩年の舞台を頽廃とするなら、もうひとつ頽廃としか言いようのない舞台裏が進行している。それは、宮西計三 「見世物小屋」或は「舞臺裏」。宮西はフライヤーに自らをこう書いている。
  画業の道程をその「舞臺裏」へと辿るものであり、三流出版と言う「見世物小屋」的世界に在って稀有な本物たり続ける彼の表現を再確認するものです。そして新たな試みとして画業のみならずパフォーマーとしての多年に渡る活動にもスポットを当てた新たな"晒しの場"を提示するものであります。
歌右衛門と宮西計三を並べるのはまさに頽廃の極北…。表舞台と舞台裏、国の芝居の頂点に立っていた歌右衛門と、三流出版社を舞台にしていた宮西計三は、同じくして頽廃を戴冠していると…普通ならこうも言わないのだが、必要以上に自虐的に身を貶めて舞台裏に立ち続けている、覚悟すら見える宮西計三に、さらなる自虐を起させるほどの言葉となるとなかなか見つからない。さすずめこんな言い方になるだろう。歌謡曲を嫌悪し、一流を否定し、体制を破壊しようとする宮西の、それでいてときおり媚びたり、脅したりする卑怯さももちあわせている頽廃ものは、ありのままに、いやありのまま以下を晒すように、腹をめくって内臓を見せるかのように舞台裏の楽屋に立ち続けている。
 そう宮西計三は、会場のショーウィンドウで会期時間中絵を描いている。肖像画家として。そして薔薇絵は、まさに一幅の薔薇の絵のように、崩壊した伽藍のように居続けて、踊り続けている。宮西計三がナハトいう昏さに仕込んだのは、策略の伽藍であり、崩壊した修道院の伽藍だ。その崩れかかっている伽藍に薔薇絵の踊りの存在はもっとも似ている。…いる薔薇絵は、ずっとずっと踊り続けている。屍体を踊っている。宮西計三の絵に捧げるように。薔薇絵の乾いた白粉が、仄かに桃色をたもっているのは、白に混ぜた顔料なのかはたまた、まだひそかに頬に生気が残っているからなのか? いずれにしてもクノップスの絵画に描かれたようなこの世ならぬ頽廃の女性は、踊っている。ずっとずっと。踊りは舞台でお客のために見せるものにあらず、という考え方もあるが、お金のために身を晒して芸能者であるがゆえに踊りだという覚悟も必要だ。土方巽は自らの踊り子にそう実践させていたではないか。薔薇絵の仄かな生気を保った踊りは至高のものである。
 鉄の板と鎖で構成された仮の廃屋伽藍に、また今日も枯れた木の瘴気を放たれ宮西計三と薔薇絵が楽屋裏という栄光の舞台に立つ。頽廃は現在形では体感できないもの。歌右衛門の頽廃も大人になってはじめて甦ってくる体験だ。しかし体験なしでは記憶に甦ることもない。今、薔薇絵と宮西計三の頽廃を脳漿に焼き付けて置くことを是非に薦めたい。どうだったかは、あなたが屍体となって焼かれる寸前に甦るかもしれない未生の答えだから。

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2010/06/09

っぽい。 のは避けたい。 っぽい のは嫌だ。『組む。』ミルキィ・イソベ

20代なかごろから40代までずっと踊りの現場にいて、プロなんだからという言葉が出てくる時があるが、それが、究極の危険信号だということに気がついたのはだいぶたってのことだった。プロだからという言葉で押し切る時ほど、危ないことはない。何度か大きな事故を体験して、天井から鏡が墜ちてきたり、火のついたロケットが動かなくなったり、したけれど、本当のプロはプロっていう言葉をはかないで仕事する。はじめた頃の素人の頃の謙虚さをもっている人がプロだ。職人という言葉もそうだ。職人が自ら職人と言う時ほどいかがわしいことはない。押し切る言葉は絶対に何か駄目なものを隠している。余談だけど、政治家のきちんととしっかりも同じような言葉だと思う。何か具体的なものを隠している。

技術は圧倒的に進んで、素人がかなりの技術をあっという間に身につけられるようになった。だけど職人が職人たるゆえんは、その技術の優位性にはない。技術と何かをつなぐところを成立させる、仕上げる技量をもっているところにあるのだ。言うに言われぬ、素人では追いつかないところ。先日、竹本住太夫がドキュメント番組で、義太夫が先に行って待っている、でも義太夫は女房というようなことを言っていた。ディレクターが、相手に合わせるということはしないんですか?と聞いて、住太夫が悪いけどあんたら素人にはわかりまへんとぴしゃりとやっていた。徹底的に大夫に合わせるからこそ、その息を知るからこそ、詰まらないように先に場面があるなどというニュアンスはなかなか言葉にできるものではない。その感じは分らないが、踊りも音を先にやってあとから踊りがついていくという場面があったりするから、そんなことにちょっと近いのかもしれないという位しか近づけないけど、その分らない微妙なうねりのような擦れを作り出すのが、プロで職人だろう。特権とかじゃなくそこでやっているということなんだと思う。

でも普通なら知らないことも、技術や秘密がしだいにオープンになってきて、できないまでも、見えないまでも、分らないまでも、そんなむずかしいニュアンスが、存在するということだけは伝えられる時代になったのではないかと思う。身につけるのは今だなと思う。っぽいというのは、表面が似ていて、そうした分らない、得体のしれないものをもっていないもの、似非のことを言う。技術や情報が進んだ分、似非の精度も上がりなんだかほんものと寸分違わないようなものになってきた。本物の食べ物は、食べ慣れていないと胃が緊張してたくさん食べられなかったり、お腹を壊したりする。やわな似非を食べ続けていると身体がやわになって本物を受けつけなくなってしまうのだ。

『組む。』は、ブックデザイナーのミルキィ・イソベと現場のDTPディレクター紺野慎一が、書いたInDesignの本だ。っぽいのが嫌いな二人とスタッフが作り上げた。っぽいのとそうでない現場魂直球の違いは、説明しづらいが、『組む。』はっぽい要素zeroの本。ミルキィ・イソベは最近、王子製紙のペーパーライブラリーの展示企画もやっているが、まぁ言えば竹尾のっぽさと王子製紙の紙好き本気の差かな。差は、っぽさとそれを排除した侠気のようなものをどう評価し思うかということだけで、別に竹尾をどうこう言っている訳ではない。で、『組む。』の剛毅な本物指向は、本物ということに終わらずに、美しい組版を作るというところに向っていることだ。ここが凄い。なかなか本格とか、本物とかを目指すとその形式で終わってしまうことが多い。この本は、美しい組版を作るという一点に向っている。っぽさの排除とか正しい方法とかは、そのための方法でしかない。

食べ物もそうだけど、蘊蓄なんかより、食べてどう美味しいか、食べて身体が震える快楽にひたれるかしかない。『組む。』も究極は組版の美しさを目指している。美しいものは快楽なのだ。編集者は今やこの快楽の道筋をもっていない。おそらくブックデザイナーがそれを担っていくのだろう。しっかりと、それでいて美しく。ミルキィ・イソベの主張ははっきりと具体的だ。テクニカルな本のように見えて、思い満載の『組む。』。究極の一冊だと思う。

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2010/05/28

『陰獣』 江戸川乱歩(1928)

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1988年4月8日の未明は、春というのに大雪が降って、開花寸前の桜は雪花を咲かせた。雪明かりに眠れぬまま家を出て、上野公園をさくさくと新雪を踏みながら谷中墓地へ抜けていった。毎年、谷中墓地で桜見をするのに雪は、それも大雪は一度もなかった。雪は音を吸い無音のように感じる公園には、時折、雪の重みで枝の折れる音や雪の木から落ちる音が伝わってくる。
桜は雪に枝垂れて、枝先を重く雪に埋もれさせていた。この異様な風景を覚えているのは、その日、昭和の絵師・竹中英太郎が身罷ったからだ。死亡を知ったのは数日後だったが、絵師に相応しい雪と桜、送り火ならぬ送り花であったことよと感慨深かった。
熱にうなされるように竹中英太郎のことを考え続けた時期があって、それで夜想の特集もできたわけだが、いつもの悪い癖で、英太郎から『新青年』も乱歩も正史も見るという偏った本読みをしていた。改めて乱歩や正史に耽ったのは最近のことかもしれない。竹中英太郎の挿絵を見るために図書館の『新青年』をめくり続けた。英太郎は、たくさんの作家に挿絵を描いたために名を変えたり、名を記述しなかったりして『新青年』に描いていた。それを見抜くのが無上の楽しみでも会った。息子の竹中労氏のように戦後の油絵を本道として英太郎を見る見方もあるが、(そしてそれゆえに竹中労とは最後に袖を分かつことになるのだが…)どうしたって『新青年』時代の挿絵、もっと狭めていえば横溝正史の『鬼火』と江戸川乱歩の『陰獣』を最高作と思うのが当然だ。左翼の人にありがちなエロ・グロに対する軽蔑と、教条的な本格をよしとする芸術観は、そのまま左翼運動の弱さにもつながったと思うが、竹中労の場合は父親コンプレックスと言えるほどの英太郎崇拝によるものだったような気がする。
英太郎は『陰獣』を描いて筆を折り満州へ向う。乱歩は『パノラマ島奇譚』以来の休筆を終えての復帰作であり、二人は『陰獣』で表舞台を交差することになる。『陰獣』と『パノラマ島奇譚』は、どちらも乱歩の力作であり人気作だが、当時の編集長の横溝正史とのやりとりが残されている。乱歩はしばしば正史を責めるように『新青年』がモダンになり過ぎたから僕が追いつめられたのだという。しかし正史は『陰獣』を大絶賛している。『パノラマ島奇譚』に比べ、オドロオドロしき妖気が、粘りっこいトリモチのように、全編にまつわりついている、と褒め、宣伝にも力を入れた。そのかいがあってか、作品が面白かったか、たぶん両方のことで『陰獣』掲載の『新青年』は増刷を繰り返すことになる。
甲府で会わせていただいた英太郎氏も挿絵の仕事を、あんなものは…という風に卑下しておっしゃっていて、息子の竹中労が絵画としての油絵を高く評価しているのを嬉しそうにされていた。横溝正史が、アルコールをやりながら寝る前に、妖しい妄想をするのが日課だったと書いているように、そして英太郎が癩病の少女をスケッチしに帝大の病棟に潜り込んだように、表はモダンにそして内実はどろっとしたものを希求していたのがこの時代の創作だったのかもしれない。もちろんそれは読者の欲望を写してもいたのだろう。
『陰獣』は、クールな語りの探偵と、姿の見えない大江春泥という乱歩そのものの二人が登場するが、書いている乱歩を入れれば三人の私のメタフィクション小説ということになって小説としての面白さがある。春泥は乱歩の作品を解説もするし、覗き趣味的に姿の見えない春泥に乱歩を重ねて読む楽しみもあって、そして創元社文庫だと、英太郎の挿画も当時のままでこの上のないものになっている。
探偵小説の仕組みとしては相変わらずでラストに破綻を起している。小山田静子が大江春泥で、六郎殺しの犯人だという帰結は、女性が化けた春泥のイメージがまったく想起できず、そして前半にもないも布石がないので受け入れがたい。静子が春泥だったと言われて、驚きとともに鮮やかにそうそかもしれない、いや絶対にそうだというどんでん返しでなければ、このような大仕掛けは、逆に、え?ということになってしまう。
一番の破綻は、記者の森田が実際の大江春泥に会っているという設定で、もしそれが嘘なら嘘をつく理由のようなもの書かないと、大きなルール違反だ。森田と静子が組んでいるか、森田が嘘を言っているかのどちらかでないと成立しないが。静子が夫の六郎を窓から突き落として殺すと言うのも、そんなことが簡単にできるかという感じだし、探偵小説家が推理し間違うように鬘を被せたというのも不自然で、それが便器のところに流れ着くというのもちょっと唐突だ。もちろん夫殺しの理由も感覚的に納得いかない。
浅草・山の宿(地名)を中心に東京のあちこちを円を描くように登場させているが、そのあたりは中井英夫のこよなく愛好するところだろう。浅草の外れ、今で言うと裏観音辺りを舞台に大川と堀を絡ませる設定は、人外がうろつく闇の深さを巧くとらえている。ふっと妄想するのだが、春子が春泥になっていたのではなくて、春泥の乱歩が春子になって、女装して鞭打たれたいという妄想の幻想が乱歩の脳裏に渦巻いていたのではないかと。それなら『陰獣』すべてに合点がいく。


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2010/05/10

上野の骨董市

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テントの上に鰐が走っているのが

目印。まんたむさんの骨董店はちょっと変わった品揃え。お気に入り。
シュワンクマイエルも欲しいものを目指してやってくる。

上野公園を自転車でまたぐたびに寄ってみる。
小さな瓶をもらった。

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2010/04/29

松丸本舗 清水真理の展示

朝方まで松丸本舗でセッティング
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丸善の松丸本舗に清水真理さんの人形をセッティング。ショウウインドウのバックから、ガラスからのセットチェンジなので、6時間以上かかる。人形の周囲に積む本を選んでカバーを外す。だんだんカバーを見ると表紙が分るようになってくる。何にもデザインしていない真っ白のもあってびっくり。

セッティングの待ち時間に松岡正剛さんと床に坐って座談。松岡さんは黒い靴下、ボクはガラの赤い靴下。ウィンドウの中も赤白のパートがあってちょっと面白かった。また少し松岡さんは柔和になっている。時はたつものだ。あっという間に。

松丸本舗の本の集合の彼方にある気配。本は集められただけなのだが、その組み合わせに人の思考の気配がする。松岡さんは人に影響を与える人だから周囲も同じ気配がする。たぶんボクはちょっと異る何かをもっていると思う。最近、そうした自分を合わせ込むのも好きなので、そうしたつもりだけどそれでも違和感はあるだろう。受け入れる松岡さんは優しくなっている。

人形も裸体、だから本も裸体。本はどこかおとこ性があるけれど、最近の本は女性の感じもする。

赤いスピンを使った展示。どうだろう。綺麗に仕上がったと思うが。
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寺山修司の本を多く入れ込んだ。それはボクと松岡さんのレクイエム。
寺山修司、土方巽、そこにまつわる人たちも消え、時代の漂白感は強いがそれでも本はそこにありいくばくかの身体の気配を伝えてくる。

まだもう少し奥が見えたい。まだ少し気配の編み目の成立をしりたい。そんなことをセッティングしながら思っていた。
明け方、自転車を飛ばして事務所にもどる。また思索の時間に耽っていく。


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2010/04/28

幻色ののぞき窓 山本タカト 芸術新聞社

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谷戸に住んでいた私は

午後3時にもなると日蔭になってしまう北鎌倉の自宅を呪うようにして生きていた。
ここを出るんだ…。そのことばかりぶつぶつと繰り返していたような気がする。20歳のときに家を出てからほとんど鎌倉を故郷として振り返ることはなかった。死ぬのはヴェネチアでなどどほざいているが、そしてかなり本気なのだが、何十年かぶりで北鎌倉の実家を去年訪れて、思ったのは、この谷戸に根が生えてしまうように、根と同一化するかのように居てしまうことを怖れていたんだと気がついた。

タカトさんの記述の中にも根が、延びていく根が、と、そこから手が勝手に根のように動いて行って、根のような絵を描いていくという…そんな感じは、究極のタカトさんの絵の、線の感覚であり、絵の源泉であるのだなぁと思う。絵はモチーフを思いつく以外に、こういう感覚のリアリティによって描かれるのだろうし、むこうから入ってくるものによって動かされるものと手の織りなしによってできあがるのだろうなと思う。

幻色ののぞき窓には、小村雪岱や鏑木清方(エッセイが素敵)の文章にでてくる絵師の絵師たる由縁、美術学校で教えてくれないような、それでいてそれがなければ一級になれないような独特の絵の馴れ初めが書かれている。黒は色の黒ではなくて、出会った闇にどう魂がもっていかれたかの黒であると思っているが、その黒の在り処をタカトさんは語っている。自分にとっての黒は、天井桟敷の完全暗転や、暗黒舞踏の微かに輪郭を光らせている身体を呑み込んでいる闇。絵画の感覚からはかなり遠い。だから絵画の秘密を感じられる本には幻惑を受ける。

もう一度、ベルメールの線について考えてみようと、思いたった。



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2010/04/23

2人の夫とわたしの事情 シスカンパニー

笑いの演出が……


上手で感心した。
シェークスピアには道化が出てくるけれど、舞台でこれほど笑えないものはない。どこがおかしいのかが古すぎて分らない。無理に現代の言葉で洒落にしたり、いろいろ演出や翻訳が工夫するけど、結局は、そこは笑いの場面ねと思いつつパスする。

古典の笑いはほんとに難しい。歌舞伎にも道化的なものがあるが、上手だったのは澤村宗十郎さん。国立劇場の復活芝居でも面白い笑いを見せてくれた。俳優祭でも菊五郎さんの笑いじゃなくて、芝居のくすぐりをもっていた人だ。

サマセット・モームの古典劇で笑わせる、しかもかなり現代的な感覚も入っていて、それは言葉尻だけじゃなくて、生活感的、なう
というような感じかな。とにかく笑いの場面で感覚が保留されてしまう古典劇の演出とはまったく違うものだった。
巧い、凄いという印象だ。笑いの演出、どんな風にしているのだろう。自分も笑いが得意じゃないので、演出の方法がちょっと想像できない。

ケラリーノ・サンドロヴィッチの演出は、他の部分も実に本格で、もしかしたら今の段階で、古典劇を演出するコンテストがあったら、野田秀樹や蜷川幸雄よりも上手だと思う。いわゆる劇的な手法……60年代、70年代にはやっ演出。野田秀樹も、蜷川幸雄もまだその延長にあると思うけど、ケラリーノ・サンドロヴィチはその流れにはない。その後世代なんだと思う。商業演劇(古いなこの言葉も)でもっと評価されてもいいんじゃないかと思う。花もあるし。松たか子、段田安則、渡辺徹が生き生きと見えたもの。

パンフレットのなかで、僕には野田さんの言葉は演出できないですよ、野田さんが影響を受けた唐十郎さん、寺山修司さんの戯曲もできないと言っていたが、為たり、と思う。今性を取り入れた人たちだけど、それを戯曲で固定したままではできないということ。演出と戯曲がいったいとなっていたものを他の演出家ができないということ。それが言いたいことだと思うけど、すらっと言っていて演劇人としたかっこよいな。

野田秀樹の「農業少女」の戯曲に表れる今は、オジサン臭くて古い。それはオジサンでちょっと今からずれているのをネタにしているさんまと似ていて、本当にずれてしまっているのをネタにする他ないことの悲哀だ。高いところにいるとやっぱり地面が見えなくなるのだ。

老いてきて今がとらえられなくなるとき、そんなに無理をしないで老人の芝居をすれば良いのにと思いけれど、当事者はそうはいかないんだろうな。

ケラリーノ・サンドロヴィッチは今たくさん見てみたい演出家だ。
くどかんや、まつおが笑いのクリエーターになっているが、ケラリーノの本格もなかなかあなどれない。
笑いながら感心してしまうからね。


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2010/04/23

助六由縁江戸櫻 歌舞伎座最終公演

三階席で見物。歌舞伎座には独特の匂いがあって、そこに包まれると否応無しに歌舞伎の世界に入ってしまう。

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芝田さんが渾身の附け。
声にならない声を出してアドレナリン全開。最期はどうしても自分なんだろうなぁ。

俳優祭のように豪華な面子。
ラストだからお祭りでまさに俳優祭なんだろうけど、歌舞伎と言えども演劇で
4番打者ばかり集めたらバランスが悪くて芝居にはならない。

菊五郎の白酒売新兵衛に期待していたのだが、やっぱり上品な新兵衛。もう少し崩してもと思うけど
この役はこれが良いところかもしれない。

通人の勘三郎、相変わらずのやりまくりだけれど
松助さんの飄々としたとぼけぶりがちょっと懐かしい。
まぁ、ほんとに4番ばかりの助六だから、演技はそれぞれの役者の人ということでおさめてもらうこととして
三年の劇場のブランクは歌舞伎に何をもたらし何を失わせるのか。
興味深い。

日本の演劇は座制度によって成立している。
劇団の名前にも座がつくものが多い。
アングラというのもテントという座、劇場を特色としてきている。
小劇場という言い方もあった。まさに小劇場の演劇がそこで展開した。
自分たち独特の劇場を主張できたとき日本では、演劇は特色を持てる。
歌舞伎も歌舞伎座あっての歌舞伎。
歌舞伎座とともに引退する裏方さんや関係者も多いだろう。
どうなるか歌舞伎、どうなるか演劇。

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2010/04/01

春来

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春が一気に来た

かなり切羽詰ったところにいるのだけれど
春来に免じてもらって
ちょっとだけ息を入れる

自転車で浅草の端にあるトラットリアに
パスタを食べに
自家製パンチェッタとか、鹿肉とか…
そんなメニューから
自分が作ったことのないものを
頼んだ。
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うん。

そして
斜め向かいで
ゲイシャの濃い方のコーヒーを。
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輝いていたな…。

力のある表現が
鮮明に受け止められるようになった
本当は
必要とされているもの


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2010/03/20

松丸本舗1

松丸本舗
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のショウウィンドウにビスに封印しようとしている清水真理さんの

片足のマリアを連れて
テスト・ショウイング。

松岡正剛さんの企画で松丸本舗に
球体関節人形を展示するお話し。

深夜にお人形を連れていった。

時代は刻々変わっていく。
それは2000年の中で変化したものを
5年で過ごする様な
すざまじい価値変化。

身をまかせているのは楽しい
が、もちろんいろいろなことがおきる。


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