pickup

rss

    news

  • editor's talk

editors talk

2008/04/07

肩にのる実在は

DSC05462.jpg
肩の上にずっと黒い塊があって 重みの実在として

ずっと夢を支配していた。 それは黒い猫で、夢から覚めてそこに何も居ないことに気づいた時
飼っていた猫であることに気づく。

その黒猫は、肩の上で寝たこともなく仮想の夢は、それでも肩の上に仮想の実在を残している。

がりがりと鉛筆を咬む癖の猫は僕の鉛筆に噛み跡を残しているけれど
ほんとうに僕の側に実在しているのだろうか

死に立ち合えることのできなかった猫たちは、今、僕の側にほんとうに居ないのだろうか。

死に乗り遅れていく経験が堆積しているときに 不在の猫の重みは
よしよしと自分を慰めてくれる何かと、いつまでもそんなことしていると、全部を失っちゃうよという警告にも思える。

肩の実在は、意外と消えないままに棲みついてしまうのかもしれない。

go to top

editors talk

2008/04/06

東京ウォーキングマップ

DSC05455.jpg
ふとテレビをつけたら東京ウォーキング・マップ。浅草橋。

放送日を連絡してくれるとTV会社の人は言っていたのに…。
星川さんが浅草橋を歩く。市丸さんのルーサイト・ギャラリーから、パラボリカ・ビス。そして浅草橋名物のロシアンティ。

ロシアのものならなんでもそろう。軍服まで。というか軍服が得意か…。
マトリョーシカがある、ある、ある、ある。

レーニンからヒットラーが出てくるなんていうのもある。

星川さんは最後にモンゴル料理店を見つけてごきげんだった。

僕はと言えば、浅草橋のビスのセッティングを抜けて、銀座に向けて自転車を走らす。展覧会を一つ見て、カフェで、思索。
でてしばらくして自転車のチェーンを切った。

もう四半世紀のっているからなぁ…。そろそろ限界かしら。

DSC05468.JPG

go to top

editors talk

2008/04/06

DSC05440.jpg

会場に贈られた花は会期が終わると鑞に封じられる

花を芯にした蝋燭は、めらめらと炎を上げて燃える。
恋月姫ドールを1ヶ月照らすために。

go to top

editors talk

2008/04/06

屋根裏

DSC05430.jpg

屋根裏のような中二階。階段下の狭い空間に

いつも坐るのが『アンジェラス』(浅草)

もう30年もここに居るのだろうか。
何をしているのか何も知らずに、店のひとは歓待してくれる。自転車に乗ってくるひと。そんな感じだ。

マスキングテープのことを考えたり、江戸川乱歩を読んだり…。それは今日、昨日のこと。
写真家をめざして墨田界隈を巡って、ようやく浅草にたどりつき、一週間に一回、ここにいたのが30年前。

go to top

editors talk

2008/04/03

石井みどり

DSC05396.jpg
今日は、石井みどりさんのお別れの会だった。

お葬式とかにまったく出ないわけではないのだけれど
黒い服が気に入らなくて、隅田川沿いの桜の樹下で独り御悔みをした。

94歳で亡くなられたが最後まで現役というのはダンサーらしい。
石井漠の相手役として抜擢。というキャリア自体が今の人には理解できないかもしれない。
暗黒舞踏の源流にあたる人。
例えば今も活躍している暗黒舞踏の石井満隆さんのキャリアは、『ダンスを石井漠のもとで始め、1961年の≪土方巽DANCE EXPERIENCEの会≫に参加して、暗黒舞踏を始めた。』という感じで、名前の石井を石井漠さんからもらっているのだと思う。
石井みどりさんも本名は折田ハナさん。石井みどりさんはヴァイオリニストの折田泉さんと結婚、独立して舞踊団を率いた。戦争中は前線にまで慰問に出かけ、戦後も56年から7年間、1万回以上の慰問公演を行った。

慰問の話しは良く、みどり先生から伺っていた。明日、敵陣に総攻撃(負けるのを覚悟の)をかける兵隊さんの前で踊った話しをよくされていた。

華のあるスターで、アサヒグラフなどのグラビアを飾ったりもしていた。川端康成からラブレターをもらったという噂があって、その話しを打ち上げなどでもちかけると、顔を真っ赤にされていたのが、今でも心に残っている。

優れた踊り手の業績が、あっという間に忘れ去られるのは、悲しい昨今の現実で、中村歌右衛門さんも、歌舞伎的に何かもっとあっても良いのではないかと思うが……たとえば昔のフィルムを歌舞伎座でかけて、追悼でいろいろするとか……。ぜひ石井みどりさんも何か後世に具体的に伝えられるものを催して欲しいと願う。

昨日は、風が強く、嵐のような日だったが、嵐君は世の中のいろいろとまったく関係がない風にのんびりとやんちゃに、ますます女の子らしくなく育っている。

go to top

editors talk

2008/04/02

丸尾末広 パノラマ・パノラマ

DSC05366.JPG

浅草には稲村劇場という蛇女や傴僂男が

跋扈する小屋があった。ちょうど花屋敷の向かいくらいだ。
その劇場主の一族が今はイベントとビデオの会社をしているというのを丸尾末広から聞いた。
しかも丸尾さんの家から歩いて少しのところにある。

昭和の中頃にはもちろん十二階もなく、仁丹塔もまもなく壊されてしまった。それらは浅草のパノラマ館だったのだろう。感覚的な。そしてもちろん稲村劇場も。

パノラマの魅惑を知っているのは丸尾末広。
机の上にのるパノラマ・絵葉書を夜想のために作ってもらった。縦の絵も、横の絵も、護謨を使って自在に展示することができる。そのフォリオというかタトウが、パノラマになっている。吸血鬼の……。
絵葉書は絵葉書はだいたい四六判(単行本)の大きさです6枚入っています。
絵はがき(ハガキ/ポストカード)の1.4倍くらいの大きさ。
お求めは:ステュディオ・パラボリカ[para shop]へ≫
4月3日から、書店などで店頭販売される。
もしなかったら注文してください。

go to top

editors talk

2008/04/02

花のかんばせ

DSC05269.jpg
山谷堀は猪牙で遊び人が吉原に通ったみち、今は、暗渠になって、細長い山谷堀公園になっている。桜が綺麗に咲いて、浅草方面のちょっとした穴場だ。

吉原を走るとあちこちに更地が目立つ。ずいぶん様変わりだ。昔の吉原を思わせる建物はさすがにない。
細江英公が四谷シモンを撮影した、吉原界隈。花はない。

DSC05345.jpg

+
小島文美さんの展覧会が終了して、撤収作業。階段にずらりとならんだ花を片づける。小島さんが片づけながら、花、ひとつひとつに感想を述べている。会期の間、ビスの階段を昇りながら花のかんばせを見ていたんだと、そのことが印象的だった。

++
花は、丁寧に縛ってドライフラワーにする。
展示に使ったり、飾ったり、鑞の棺桶の中に忍ばせたりする。

+++
活かされる花に、小島さんはどこか満足そうだった。


go to top

editors talk

2008/04/02

妹を待つ 恋月姫展覧会

DSC05349.jpg
妹が来るのをまって

柩に入ろう。今夜は、月で明るい。眠れない夜に想う。このナハトに置かれた柩のなかに妹たちが、弟たちが眠る黄昏を。


go to top

editors talk

2008/04/01

『少女椿』丸尾末広

21巻の紙芝居『少女椿』にインスパイアーされた丸尾末広の『少女椿』

21巻通しで上演されることもあるらしい。見てみたい。

寺山修司が見世物の復権をかざしてアングラ芝居をしていたときの雰囲気やモチーフが『少女椿』にはある。
寺山修司は海外遠征をして、カントールや、ウイルスンなどの前衛演劇に触れる度に、モダンな、そしてコンテンポラリーな前衛演劇に変貌していった。寺山修司は短歌という身体性をブリッジに、最後まで、見世物的日本とつながっていたところがあり、それは『田園に死す』などの映画を見ると良く分る。

丸尾末広の『少女椿』は、アニメや芝居などにとてつもない影響を与えた。東京グランギニョールの飴屋法水も丸尾末広の世界を標榜する芝居だった。丸尾末広も舞台に登場し宣伝美術を担当していた。

夜想の後楽園球場を使ったイベントに東京グランギニョールに出演してもらったときも、全体のB全のポスターは丸尾さんだった。

見世物小屋はなくなり、寺山修司も作風を変え、少しずつみなが魔界の世界を離れぎみになった80年代、それでも丸尾末広の世界は、脈々と次世代に受け継がれていった。微妙に変貌しながら…。そして世紀の変わる頃に、アニメ版『少女椿』というとんでもない事件のような作品を生んだりもする。アニメ版『少女椿』は、映像にパフォーマンスが加味されて上映される。

見世物小屋の世界はどこまでも身体を絡めた事件を孕んで継承されていくのだ。

go to top

editors talk

2008/03/31

『追奏曲、砲撃』 桃園会 深津篤史/演出

DSC05222.jpg
演劇という形式は、大きくは新しくならないのではないかと思っていたが、そうではないようだ。

桃園会の深津篤史のアフター・トークは面白かった。

ニュアンスとばし
という稽古。いわゆる役者の過剰な張りをなくして、台詞による演劇の原型を
統一のトーンによって静かにアンサンブルしようとする意図があるのだろう。深津篤史には。
指揮者が暴走する演奏者をなだめているような…。

ゴロを捕る名手が試合前に簡単なゴロを投げてもらって何度も捕るような。
ミートの良いバッターが、インパクトポイントのあたりをゆっくり、ゆっくり素振りするような。

タイトルの追奏曲は、カノン。砲撃もカノンから撃たれる。
カノン形式で演出される演劇。

祖母が亡くなって、相続の問題が発生して、敏弘は何十年ぶりかに父に電話をする。父は昔に家出をして今は、沖縄にいて新しい家族がいるらしい。どうも一樹という兄にあたる人もいるらしい。
場面は、黒い大砲の口径のようにも見えるセットを行ったり来たりするたびに、大阪の繁華街と沖縄の海の見える父親の家になるらしい。

見ている限り、それはあくまでも「らしい」であって、「~だ」とは思えない。台詞やシチュエーションがリフレーンして連なっていく。少しも先に進んでいるような感じはしない。

映画「昨年マリエンバートで」が、同じシーンを少しずつ変えて繰り返していくうちに、事実が登場人物にも観客にも分らなくなっていくという表現をしていたのを思いだした。でもマリエンバートのように硬質な感じではない。ふわっとした、何となく間合いがとれない感じだ。

丸いカウンターのような、全体を見ると巨大な大砲の筒口のようなセットを、向こう側に移動して大阪になり、また移動すると沖縄になる。

+
父親との距離、友達との距離、在ったことのない母の距離…そうした距離が実に曖昧なものであるということを、曖昧な感じで表現している。世界は多くの価値観によって成り立っているので、人によって違う世界に見える。だが、個人から見れば偏見だろうが何だろうが、世界は一つに見える。それが少し以前の見え方だった。今は、個人から見える世界も、はっきりとせず揺らいでいる。そんな感覚を作・演出の深津篤史は描いているように思う。
++
いわゆる演劇的な台詞の張りかたをせず、誇張した動きを抑制して、あたかも日常ですらっと出てくるような言葉使いをしながら、その背後に、群衆蠢く社会の中で、膝を抱えているような孤独感を強烈に醸し出している。
+++
こういう演出、描き方もあるんだなぁと、驚いた。
DSC05221.jpg

go to top

editors talk

2008/03/29

西欧で人形と言うと…

DSC05209.jpg
肩がなくてすとんとした、ロリポップ(棒つきキャンディー)のイメージが人形。


そして人形は人とはそんなに近いものじゃない。
日本の人形は肩が張っていて、人に近くてちょっと怖いところがある。

+
外から見える人の形に近づけようとしないから、日本の人形は、逆に人に近くなる。「私」がでてくる。「私」を突き詰めると、「私」は多くの私になる…という前提で、「私」の表現はあった。
それは「私」が歴史なり、その時代なり、社会なり、地域なり、なにかの共通地盤とどこかでつながっていた…ということがあってのことだ。

++
「私」の視線自体異が、そしてあなたとの距離自体が、そしてみんなとのやり取り自体が、虚ろに揺らめいている時、「私」の一時を呑み込んだ、人形は、怖いなにかを内包している。


go to top

editors talk

2008/03/29

『だるまさんがころんだ』 燐光群 再演

DSC05240.jpg
台本をいまに書き換えたのかな…あ、全然、書き換えていないんだ。
パンフレットを後で読んで驚いた。

パンフレットには、
今回の上演は、まぎれもなく「今現在の劇」でありながら、初演時である2004年3月という時間、時代をも、確実に舞台上に刻印したいと思います。とある。台本は変えていない。なのに前回見た時よりも、さらに今を感じる。

語り役をしていて、父の無言を描いた小説で賞をとった妹が、突然、通り魔に殺される。一昨日、昨日、今日と、誰でも良かったという殺人が続いて、ここに描かれているものは、何だろうと思ってしまう。問題が起きている地点からは、どんどん問題の芽が放射状に拡がって、別の形になって、そして違う形でまたネガティブに爆発する。

私たちが作るものはプロパガンダではない。演劇である。でもその区分けはどうでもよいことだ。
坂手洋二はそう語る。

+
プロパガンダ、あるいはドキュメントを現実として捕らえる行為、それをそのままに出すだけでも演劇としてしまう方法を坂手はもっている。それはあらかじめ作家の側が妄想した物語によらないということだ。現実によって作るということだ。

++
その上で、演劇として収斂する物語を織り込んで(トッケイという怪物)『だるまさんがころんだ』ができ上がっている。
その織りなしのギリギリ性を保って、何度でも繰りかえせるのは坂手の才能だし、他に見たことがない。

+++
八百長のないゲームは、こちら側の観客や解説者(舞台なら評論家)の想定する物語とまったく相反するところで成立する。突然、終わったり、一方的だったりする。過剰な物語と、解説によって毒されてしまっている感覚から、早く逸脱するべきだ。現実は、あっけなく終わるほど、残酷で魅力的だ。坂手の向っているのは、そんな現実なのだ。

++++
それでも演劇が欲しい。坂手はそれができる数少ない演出家の一人だから。
トッケイは、かちかちと舞台になり続けている、地雷の時限装置の時計の音。その時の象徴。
地球上の地雷の、時計の音は、
今、爆発するしかない巨大な怪物になってしまったよ。
それに対してどうするの?
そういうメッセージが込められているのだろうけど、さらに、坂手に何かを言って欲しかった。
彼くらいしか言えないのだから。


go to top

editors talk

2008/03/28

西瓜糖

DSC05213.jpg
3月23日で西瓜糖が終了した。

カフェギャラリーのはしりだった『西瓜糖』が終わった。
ここをデビューにたくさんの作家が育っていった。
みなコンセプトをちゃんともっている作家だった。

しかし派手ではなかった。
セッティング中でも
大きな樹の下で、ゆったりとコーヒーを飲む時間を
大切にするような人たちばかりだった。

『西瓜糖』のコーヒーは美味しかった。
ピスタチオ…。

DSC05224.jpg

go to top

editors talk

2008/03/28

小島文美 コスプレイベント

DSC05235.jpg

衣裳を着る、快感。

衣裳を着る快感、作る楽しみ。
それがゆえのコスプレなんだろうな…と思った。

少なくとも、小島文美さんの描いたキャラクターをコスプレしてるレイヤーさんたちは。
イベントは無事に終了。というか、楽しかった。
ドラキュラのマントを着て司会した夜想の編集長だけはちょっと浮いていたけれど。

キャラを軸に
人は、開かれているように思える。

それはちょっとオタクの世界とは違うかもしれない。

いろいろ思ったが
何せ、若葉マークなので
これ以上は申すまい。

もう少し触れてからにしよう。
とまれ楽しい一夜だった。

go to top

editors talk

2008/03/28

龍口酒家  ろんこうちゅうちゃ

DSC05203.jpg
のれそれが 卵のような味がしている。ふわふわ。

劇場の帰りに久しぶりに龍口酒家。
美味しい。

go to top

editors talk

2008/03/27

無差別殺人と並列で…

製本業・三成社紙工で起きた殺人事件は
無差別の理由がない殺人事件とはまったく関係がないのだから


何となく並列で報道したり、分りません…みたいなコメントをもって取上げないように。

おそらく紙工とついているから製本業でももっとも利益幅が薄いと思える、そして取引先に依存する折り屋さんではないかと思う。
本でも雑誌でも大きなサイズの紙に16ページなり、32ページを刷って、それを折って「折り」を作り製本する。

単価は30年前とたいして変わらないから、そして自動の機械が出始めて、仕事は減っているだろうから、そして出版は相変わらず、不況だから、辛いことだろう。

動力に軽油などを使っていれば、この石油値上げは、かなりの打撃だ。

理由も原因もある。他の選択肢もあっただろうにとやくみつるがしたり顔で言っていたが、一つの選択肢に追い込まれた、その状況と原因を見るべきだし、石油の税金を政治の道具になんか使っている場合じゃなくて、それによって死ななくてはならない人や、廃業に追い込まれる人がいるということだ。もちろん税を廃止して、同じ風に追い込まれる人もいることは分っての上でのことだ。

人が例えば鬱になって一人で自殺するということと、家族の中で、相談もできず、解決策を封じられた孤独な状態にあれば、それは一人よりも一人の状況で追いつめられるということもある。それが経済状況を根底にして引き起こされることもある。
もし経済が問題なければ、起きない精神的障害だったりもする。

もうちょっと多方面から理由を探り、最低でも問題点を排除できるものは排除しないといけないだろう。
そんな悲鳴を、無差別とか、分らないとか、弱いとか、言っていてはいけないし、言っている社会が殺すんだという言い方さえできるだろう。


go to top

editors talk

2008/03/27

『スウイニー・トッド』 2001 スティーヴン・ソンドハイム

ティム・バートンってやっぱり変わってるな…。

クラシックというのは、誰もが読みたいと思っていて誰もが読んでいない本のことを言うんだ。

マーク・トエインが言ってことだが、『スウイニー・トッド』がこれにあたる。誰も原作を読んでいない。に、近い。
たしか日本語には訳されていないと思う。

+
『スィニー・トッド』は、スティーヴン・ソンドハイムのミュージカルで有名だ。ソンドハイムは、『ウエストサイド物語』の作詞をしたひとで、ミュージカル『スウイニー・トッド』の作詞・作曲をしている。そしてそのミュージカルは、2001年に映画化されている。舞台を撮影する形で。

++
その映像を見ると分るが、詩と曲のアンサンブルで、残酷な内容でも笑えるようにできている。ブラック・ユーモアとでも言うのだろうか。映像の中でも観客は、けっこう大声をあげて笑っている。同じ歌が何度もリフレインされているが、これも効果的だ。
残酷が原作が、かなり緩和されていて、「歌」の舞台になっている。

+++
ここまででき上がっているものを、そのミュージカルのそのままに歌詞を使って、ミュージカル仕立てで映画にする、バードンは不思議な人だ。オマージュで生きているところもあるし、変質しているものや人が好きなので、トッドのダークな面をミュージカルから取り戻そうとしたところもあるのかもしれない。でもデップが、剃刀を掲げてポーズをとって歌ったりしているので、ダークさはかなり半減している。

バートンは、ミュージカルよりも恋愛、愛に焦点をあてている。メジャーだから? バートンが愛が好きだから?


go to top

editors talk

2008/03/26

タルトタタン

DSC05194.jpg

イタリアではちゅるちゅるに柔らかく熟した柿を巧く使ってパスタやサラダに入れている。

焦げた感覚のまったくないふわふわのタルトタタン。『ストロバヤ』の絶品。
はじめて、テラミスを食べたのも、ブラマンジェを食べたのもここ。それからイタリアで追体験したけれど、勝るものを食べられていない。いまだに。タルトタタンも一番。

go to top

editors talk

2008/03/26

無差別

原因はあるけど理由はない。

無差別にいろいろやる、人たちがいる。まった予想がつかないので、そのことが怖い。分る、などということは、軽々しく言う事ではないが、分らなさすぎる。

ふと、思ったのだけど、原因はあるかもしれないが、理由はないのかもしれない。
だから見えない。

妹だから…。と、うちのスタッフが笑って答えた。いつもちゃきちゃきのお姉さんがやってくれたり、助けてくれたりしてたので、ぼーっとした感じで、次にすることが人から見えないって。

腹立たしいから、頭にきたから切れる。というのは理不尽だけど理由がある。それがなくてぽんと、くる。分らない。でもそこに至る原因はどこかにあるのかもしれない。そんなことをご飯を食べながら考えていた。


go to top

editors talk

2008/03/25

古いラベラー

DSC05160.jpg
古いラベラーのインクがどこにもないので

ネットで検索しまくってようやく見つけて、自転車ででかける。
飯田橋の向こうの小さな文房具屋さん。一個だけ分けてもらって、仕切りシートを手に入れるために新宿、ユニオンへ。
その後、セガでコーヒーを飲みながら読書。

帰ってセットしたのだけれど、少ししたら壊れてしまった。あ、ああ。


go to top