pickup

rss

    news

  • editor's talk

editors talk

2008/04/20

『三島由紀夫の美学講座』 筑摩文庫 

DSC05759.jpg
『金色の死』はあきらかに失敗である。

三島由紀夫は谷崎潤一郎の作品をそう断言する。

+
そしてこうも言う。
しかし天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのほうに作家の諸特質や、その後発展させられずに終わった重要な主題が発見されやすいことが多い。

三島は強く、傍点をもって谷崎潤一郎の『金色の死』を引用する。
   
   そのうちでも最も美しいのは人間の肉体だ。思想と云うものはいかに立派でも見て感ずるものではない。

三島は、肉体、つまり見た目が思想よりも立派だというところに同意しているのだ。『金色の死』の前半の岡村は、文芸をこなしつつも肉体の方が美しいと主張している。そこが良いと。そして後半でそれを否定しているところが駄目だと言っている。

鉄棒の方が、却て鞭のような彼の体でぴたりぴたりとさも痛そうに打たれました。岡村君の、肌理の細かい白い両脛には、無数の銀砂が薄い靴下を履いたように付着して居ました。

これは『金色の死』の中で、三島が敢えて引用しなかった岡村君の美しい肉体への賛辞の部分。文章的にも内容的にも三島好みである。

三島由紀夫が封印されていた『黄金の死』を全集に取上げ、長い解説文を書いた理由は、このあたりにありそうだ。三島は、文学的資質を充分にもちながら器械体操を優位とする岡村が、(その状態を三島はよしとする)最後には金に飽かせて西洋美術の模倣品の理想郷を作った、そこが駄目だと言っている。どうして前半のままの岡村で、そしてそのままに死なないのかと思っているに違いない。

『黄金の死』は三島由紀夫の生き方に大きな影響を与えたように思える。そして作品にも。

++
三島は書く。
それにしても『金色の死』の、美の理想郷の描写に入ると、とたんにこの小説は時代的制約にとらわれたものになる。統一的様式を失った日本文化の醜さを露呈する。

たしかにそれはそうかもしれない。しかし『金色の死』のラストを三島の非難からかばいたくなる誘惑にかられる。まぁ良いではないか。そのばらばら度合いも良しと。

谷崎潤一郎は、理想郷に入れるべき美術をまず日本は豊国と西欧はロートレックを上げている。三島がそれを苦笑している…しかし隔たった山の一角の、白亜の洋館の廊下(ベランダ)を…と『金色の死』の、谷崎の書く理想郷と、非常に近しい白亜のベランダ付きの洋館に、ロココを配して三島由紀夫は住んだのではなかったか。

まさに三島由紀夫は魅入られるように『黄金の死』を生きたのだ。

+++
谷崎の描いた、金粉を塗りたくってパフォーマンスをし、皮膚呼吸ができなくなって死ぬというのも理想の庭園に相応しい。谷崎潤一郎は『金色の死』で耽美世界に足を少し踏み込んでいたのだ。この時代に言われていた耽美ではなく、西欧にあるような本格的な耽美に。踏み込んでしまったと思ったのか、そのあたりは分らない。

三島由紀夫の嘆美は、谷崎の耽美とも少し異っている。どっちをとるかと言えば、耽美に関しては、谷崎をとりたい。谷崎潤一郎の理想郷の美術の中には、若冲が入っている。『金色の死』が1914(大正14)年に書かれたことを思うと、谷崎は何かをつかんでいたように思う。谷崎の耽美の嚆矢として、僕は谷崎世界をレスペクトしたい。

++++
三島由紀夫の思う通りの美的価値観で終わらず、しかも作品自体を葬ったことに対して三島由紀夫は抗議しているように見える。谷崎潤一郎が貫かなかった[器械体操が思想を凌駕する]という思想を補完するかのように三島由紀夫は人生を生きたのだ。

三島のデカダンスは、行為の耽美者である。妄想と模造の思想のために死を賭してしまう三島由紀夫は、そのことで最高の耽美者と言えるだろう。本物ゆえに死を賭すのは殉死である。三島は文学者として生き、文学者として死んでいるのだ。虚構を最高の模造品にして、理想郷にして、かなうはずのない主張を掲げて、毎日していたような切腹遊戯のようにしてセクシャルな耽美を現実に一瞬持ち込んで死んだのだ。

ただ三島由紀夫がその模造性をどのように意識化しえていたのかは、これも分らないところである。意識しないからこそなりえたとも言えるし、興味深いところだ。

『金色の死』


go to top

editors talk

2008/04/19

修理終了

DSC05680.jpg
チェーンの全とっかえをして、2000円。

そうしたら今度は、ギヤが入らなくなった。
満身創痍だな。
自転車屋さんに行ったら(浅草の)
ギアのスプリングが堕ちてるよと言われた。しかたがないのでギヤごと交換。
今日ようやく、修理が終わった。

高いギアでもトラクションがかかるので
乗りやすい。

チューブとタイヤ、ブレーキ・ワイヤー、ギア、チェーンとこの数ヶ月で取り換えた。
今度は、フレームに亀裂とか…。

毎日、かなりの量、走っているからしょうがないよな…。
でももうちょっと頑張って欲しい。


go to top

editors talk

2008/04/19

池之端 薮

DSC05657.jpg
低気圧が重くのしかかる午后

雨は激しく降っていて、午后の開店の4時半にまだ少しあったので
喜屋によって顔料を見て時間合わせをした。
暖簾を出すのと同時に店に入って、ざるを頼むと、
どこで待っていたのか、ピッタリに店に向ってきたのかもう六、七人のお客が入っている。さすがに『薮』だな。

最近、蕎麦を食べるときの葱が気になっていて、晒しが甘いと、苦すぎて、蕎麦の味を分らなくしてしまう。
池之端の『薮』もどちらかと言えば、その部類だったのだが、いつのまにか細く切った、充分に晒した葱になっていて美しい。

ご機嫌になっていたら、隣席から「美味い」と密やかな声がする。
蕎麦苗を口にして、思わず声を出したらしい。

雨の午后はたおやかに流れる。


go to top

editors talk

2008/04/17

信頼できる仲間

僕に歌舞伎を教えてくれた、竹柴源一さんがまた新たな挑戦をしていて演劇グラフで

大衆演劇と歌舞伎とのジョイントを提案している。
しかも相互に技術を交流しながらのことだ。

竹柴源一さんは柝の会を立ちあげて、歌舞伎の普及や小芝居の復活に身体をはってきた
歌舞伎の狂言作者さんだ。

その竹芝さんが座長さんとの対談で、
集団活動ができないんですね……最近の子たちは。と、嘆いていた。
集団活動ができないと芝居はできない。特に歌舞伎とか、大衆演劇とかは間合いでやる演劇だから。

確かに集団作業は上手じゃない。
組織の中で、あるいはディレクターのいるなかで、作業するとき
その中に「信頼できる仲間」と呼び合う集団を作って
細かくグループ化して差別化することがよくある。

誰かが「信頼できる仲間」には、心を開くけど……みたいなことを
言うとき、
僕はちょっとげんなりする。
それは必ず集団を中から崩壊させる力学になるからだ。

個人でやれることもないのに
どうして自分がある種の道具として使える、そしてそこに居て、自らのアイデンティティを発揮できそうなところなのに、
その宿主を破壊するように動くのだろう。

癌細胞も大きな組織が育ってくると
他の小さな組織はなりを潜める。それは宿主を殺せば自分たちも生きていけないからだ。
大きな組織が切り取られると、周辺の癌細胞は活発化して、再発ということになる。

空気を少しは共有しないと集団というのは成り立っていかない。
維持するためにとか保守的な意味でなく、クリエイティブをするために複数人が組み合わされたとき、そこでは目的、やりたいことを共有するという共同性が必要だ。

追っかけをするとき、それは抜け駆けをしないという不文律を作る。でも抜け駆ける。自分だけが特殊な立場になりたいからだ。
コスプレはキャラを共有したり、棲み分けたりする。けっこう。それは相手がキャラクターで人間ではないからだろう。

嫉妬ということを含めて、人は修羅に生きている。

go to top

editors talk

2008/04/17

1999『The Virgin Suicides ヴァージン スーサイド』 ソフィア・コッポラ

DSC05636.jpg
カモ井のマスキングテープをもらう。武蔵とカブキS。


車両塗装用マスキングテープなんだけど、名前が凄いなぁ。
カモ井のMTシリーズの問屋契約をしたのだけれど、僕の好きな工業用製品は扱えない。
ファンシーで、ガーリーなMTシリーズだけ。しかも大箱単位なので、扱い切れない。どうしようかな。

MTシリーズのパステル調の色合いの渋さがもうちょっとガーリーになればなどと考えながらカフェ・バッハで一息入れる。

DSC05641.jpg

+
昨日見た『The Virgin Suicides ヴァージン スーサイド』の色使いは、やっぱりコッポラらしく、デビューでこんなにしっかりと女の子の感覚を表現し切れているのは、さすがだなと、感心する。

++
女の子たちが自殺する分けは、最後まで分らない。分らないところに立ち入らないところが女の子の感覚。
それを見ていた男の子たちは、理由を考えるけど、分らない。でも男の子たちは彼女たちを愛していた。青春のまっただ中で。

ロスト・イン・トランスレーション≫


go to top

editors talk

2008/04/15

クラッシュされたロマンティーク

DSC05621.jpg
朝の光は黄昏のように少し暗く

本を読むのを諦めて
天使の刳り貫きから外の光を見る

『アンジェラス』

外に置いた自転車は次々に部品が飛んでいく
昨日、チェーンを新調したら
ギアのスプリンが脱落してハイギアに入らなくなった。

クラッシュされたロマンティークがカッコよいのは見ている限りにおいて


go to top

editors talk

2008/04/14

『尾張屋』

DSC05611.jpg
浅草の『尾張屋』は永井荷風が食べていた

天麩羅蕎麦で有名だけれど

僕は食べない。
春になると変わり蕎麦がはじまる。
まず桜エビを練り込んだ変わり蕎麦。少し通うことになる。
春だ。

go to top

editors talk

2008/04/14

独りで

DSC05614.jpg
久しぶりに。

本を読む時間を作って耽る。

アリスは不在。兎も不在。
キャロルが机の上にいる。

ここは、カップルと独りで文字を書いている人しかいない。
文字を書いている人は
誰も、小さな、小さな文字で書いている。

唐十郎のような小さな文字を
反故紙に書いている。

go to top

editors talk

2008/04/14

スタジオ・ライフ 倉田淳 インタビュー

皆川博子、萩尾望都、清水玲子、吉田秋生…

好きな作家の作品をことごとく舞台化しているスタジオ・ライフ。
最近は、その原作を読み直したりしている。

『夜想』ヴァンパイア特集に載せきれなかったインタビューの後半部分をネットに載せます。
インタビュー・ページへ≫

go to top

editors talk

2008/04/13

彼方

DSC05599.jpg
要素をぜんぶ加味するとだいたいのクオリティは想像がつくが

ときにジャンプしてくるものがある。
ミゼリコルディアに納まった人形たちもまたそんな地平の違うものを見せてくれている。

単純にジャンプは起きないもので、
ディテールや構造にあらかじめ託しておき、準備しておいてのことであるが
それでも
その集成の予想を超える何かが発生している。

発生した光のようなものは、慈悲の力をもつ。
そこにいるだけで上方へ引っ張られる何かがある。
癒されるのとは少し異る。

ふーっと暖かくなると熱くなるの中間くらいで
身体が反応するものだ。

不思議なことが体験できるから
雑誌もギャラリーもやめられない。

go to top

editors talk

2008/04/13

『秘密』 清水玲子

最後に何か言わせろや。どうせ死刑なんやから
死んだ人の脳を見ることで、「念」が伝染(うつ)るんだよな。

清水玲子の『秘密』がTVアニメになったが、死んだ人の脳を読むという設定と、その脳から『秘密』が読めるという、カバーと帯を読んで作ったかのような浅薄さは、いかに大衆を相手にして、既成のある業界だからといって、酷いんじゃないかと思う。

三原ミツカズの『死化粧師』のドラマ化にもそんなことを感じた。

少し前なら、『夜想』で取上げるとしても、躊躇したり、発禁になったりすることを考慮しなければならなかったテーマや設定が、今では誰が見ても良い、TVで放映される。TVはぎりぎりの変わった設定を欲しがる。そのくせより普通で、安易なものにする。

最後に何か言わせろや。どうせ死刑なんやから。これは宅間守が言った言葉で、裁判官は発言を制した。報道や世間の常識は、最もやばいもの、最もネガティブなものに蓋をする。蓋をされた最悪なものは、さらに凶悪になって伝播する。

清水玲子の『秘密』の犯罪者の脳を見ることは、宅間の最後の発言を聞くことと同じことである。そこにはもしかして歪んだ愛もあるかもしれないし、その愛が、歪みに歪んで到達した、どうしようもない地点の夢魔のような地点に同気することなのだ。清水玲子が描いているのは、そうした人間の「念」が伝播していくことのどうしようもなさだ。

『秘密』や『師化粧師』の「念」の部分を描かないということと、宅間の発言を聞きたくないというのは、まさに同じことであり、それがどれだけ潜在している「念」を現実の行動に移す、ことに繋がっているのか、考えてみた方が良い。

分っちゃいないな…。それがゲートを越える一つの感覚であるような気がする。

PSで言えば、
『秘密』は、脳の話や、人のプライベートな秘密についての話ではなく
『秘密』にまつわる人の愛や想いを真っすぐに描いた、純愛の物語であることを
脚本化はもう少し分った方が良い。


go to top

editors talk

2008/04/11

野波浩 陶肌曜変

DSC05577.jpgDSC05578.jpg
コスタディーヴァには、新に焼かれた恋月姫人形の写真が

マッティナには野波浩の代表的作品群が
納まった。

かなり大規模な写真展になる。会場に合わせ額も焼きも新調された。

go to top

editors talk

2008/04/11

恋月姫 ミゼリコルディア(慈悲の家)

DSC05572.jpg
慈悲の家に納められた

人形たち、深夜から朝に向って、セッティングは進んでいく。
あ、ヴァンパイアもいる。
首から血を流している娘もいる。
待機する子たちは十字を纏い、来るべき日を待つ。

慈悲に贖罪されるのか
はたまた。


go to top

editors talk

2008/04/11

手の跡

DSC05547.jpg
手づくりは気持ち悪い?
DSC05565.jpg

手づくりの封筒が相手にとって気持ち悪いということもあるのだと知った。

蝋燭を作っていてディテールにクラッシュのざらざらを入れたりしていると
ちょっとなぁーという感覚のものができあがる。気持ちの良いのをねらって真逆にできあがるという感じだ。失敗した(自分ではそう思っていない)手づくりのヴァレンタインチョコ?

だいぶ前なら手づくりというだけで愛情のやり取りがなされた。ディテールの結果はどうでもよかった。今は……かなりの人が気持ち悪いという感覚を受けるかもしれない。そもそも手づくりのプレゼントなんて気持ち悪いと思っている人がいる。手づくりを好きとか恋愛とかにかけても同じことかもしれない。

個人のよけいなものまでが出ているからだろうか。でも作品でも、個人の、かつてなら余計と言われるものが出ているものもある。

素材と、素材の使い方の組み合わせで、気持ち悪いという感覚が想起されるのかもしれない。それは個々別になってきている。あるいはそういうマイノリティーの集団にはそう思われる。

ただしことは簡単ではない。同じ、テクスチャーを大きくすると別の物になってくる。蝋燭で気持ち悪さがあるものも、棺桶の大きさにするとそうでもない。快感が出てくる。大きさに吸収されるからだろうか。手の範囲と、手のちょっと越える範囲ということもあるのかもしれない。


go to top

editors talk

2008/04/10

水浴

オフェーリアを救出した。

まだ髪も整えていないままに……そこにいる。写真は、明日の午後までの公開。
この姿は明後日までに変わる。
エンバーミング。

永遠は一瞬。

go to top

editors talk

2008/04/09

『死都ブリュージュ』 ローデンバック

DSC05531.jpg
都市の陰鬱を描いた作品……と言われているが

恋愛にもならない頽廃の関係に堕ちていくユーグとジャーヌの関係は、
理性が禁忌を呼びかけているのに離れることができず
アディクションにも近く続いていく。そのどうしようもない脳のブルーな感じを都市に投影する。
そんな感じだ。都市がそれを起したとユーグは言うが、それをそのままには受け取れない。

都市の景色の中に主体の心理を織り込む文体は、心理描写を巧みに隠して、なおかつそれを強く感じさせる。心理描写と言われるものは、意外に感情を説明したものであることが多く、感情をそのままに、描くにはローデンバックのこの文体が必要かもしれない。

何故逃れられないのか……。もう妻と同じという幻想は失せたのに。
答えが死都ブリュージュにあるような錯覚を起させるデカダンス。極地かもしれない。

パラボリカ・ビスは明日、13体の人形を迎える。すでに会場に到着している。
準備に忙しい。中に何体か感情を風景に譲り渡したかのように無表情にしている娘がいる。
頽廃のかんばせをした子がいる。
娘なのか子なのか……それは会場で確かめないと分らない。
妖しい雰囲気を漂わせている。

ユーグの愛した死んだ妻と、踊り子のジャーヌが同居しているような。
頽廃は、今の世にあって貴重だ。


go to top

editors talk

2008/04/09

更科 浅草橋店

DSC05514.jpg
影のように写っていて、顔のはっきりしない人が

いつも蕎麦を作っている。
僕の大好きな足踏みの人だ。イノダコーヒーの伊藤専務、歌舞伎蕎麦のおじさん。
気合いがはいると作る時に細かく足踏みをする。

浅草橋ガードの下の『更科』も若い蕎麦打ちさんが足踏みをして蕎麦を作ってくれる。
更科蕎麦が売りなのだが、僕は手打ちを頼む。

壁に写真が飾ってあって、真ん中に師匠のような年配の人が写っている。師の影を踏まないようにか、二三歩下がって、数人の人が写っていて、その一人が『更科』の店主だ。師匠なのかなと勝手に思っていたら、ある日、突然、写真の人が蕎麦を出していた。

手打ちそばがごつい。切れが均等に揃っていなくて、不器用な形をしている。さらにごつい感じ。うーん。悪くない。
味わうために二三日かよった。昨日また元の人に戻っていた。

気持ち蕎麦がしゃきっとしているような気分がした。刺激があったのだろうか。
タラの芽と大葉の天麩羅をオプションで頼んだ。ここは天麩羅も美味しい。

DSC05528.jpg

go to top

editors talk

2008/04/09

『夜の声』 ホジスン

DSC05392.jpg

霧にまみれた闇の海から声が聞える。
『わしはただの年寄りの——人間だ』


ラヴクラフトへつながる、怪奇作家・ホジスンの名作。ホジスンは、1903年、つまりヴィクトリアン朝の終わり頃から、海を舞台とした小説を書き始めて人気作家になる。留学中の夏目漱石がイギリスにいた頃だ。


『夜の声』は、『ゴジラ』などの東宝怪獣ものの監督、本多猪四郎が1963年にとったホラーの名作『マタンゴ』の原作としても知られている。

ヨットでセーリングしている男5名、女2名が、暴風雨にあい、霧にまかれ遭難し無人島に流れ着く。そこには、難破船があり、謎のキノコ・マタンゴが生息している。

黒沢清が絶賛する『マタンゴ』。原作も上品な筆致で、心理描写に優れているが、映画も劣らず当時の若者たちの風俗や、心理を描きつつ、スパイラルに恐怖のシーンに向っていく。特撮を見せたいだろうがそれを最後まで残しておき、そこへ到る怪奇の道行をドラマとして描いていて面白い。

ホジスンの怪奇の面白さは、イジメを受けながらの船員生活や、写真に興味をもったりという現実を直視するという、リアリストの感覚があることだ。1902年10月、アメリカの奇術王ハリー・フーディニがイギリス来たとき、縄抜け術如何わしさを証明するために、挑戦し、自らの手で縄をきつく巻きつけ、ハリーを困らせた。(観客はハリーに同情的で、これで人気を失うはめになったとも伝えられている。)不思議な現象にリアルな背景を加味するところがホジスン独特のかき方で、『夜の声』にはそれが伺える。

『マタンゴ』もホジスンのリアリストとしての資質を生かして映像化している。初期の東宝の怪獣ものには、そうした現実からの移行をきちんと描いていたものが多く、怪奇幻想の王道であると言える。


go to top

editors talk

2008/04/08

十字架道行の留

DSC05521.JPG
十字架を背負ったキリストが休んだ場所。STATIO。


安心することはないかもしれないが、憩う場所があれば、一瞬、心が留まるところがあれば。
血を吸われた、吸血鬼キャリアの子たちは、柩のなかで不安と期待に苛まれる夜を送っている。
留があるとしたらそれは蓋をされた柩の中かもしれない。

柩の蓋を作った。技術は僕のものではないが、テクスチャーには感覚が反映されている。
思っても見なかった、ディテールの嗜好が顕になっているので、少し驚いた。手の癖も、欠陥も浮き出ている。鑞は、不思議な素材だ。

マスキングテープを忍ばせたが、巧くよじれて表面に浮き出ている。

go to top

editors talk

2008/04/08

こりゃ、こりゃ駄目だ

DSC05509.jpg
チェーンが切れて放置してあった自転車は

雨に濡れていた。浅草橋から自転車を引きずって、最も近いと思われる宇田川自転車へ。
おじいさんとおじいさんが出てきて
場所を取っ換え、引っ換え、チェーンを覗き込んでいる。見えない、懐中電灯で照らそう。そっちからじゃ駄目だから、こっちへ。
会話を聞いていると親子だということに気づいた。

これは平たいチェーンだから、ジョイントじゃ駄目なんだよ…。
ああ、そうですか。
あなたはここに坐って見ていてください。と、パイプ椅子を薦められた。

こりゃ、こりゃーぁ、駄目だ。仮につけておくから、うーん、2日もつかな。
じゃ、2000円。
え?

力をかけないようにそーっとパラボリカ・ビスまで戻ってきた。
チェーンを取り換えるのか…。ビスでいっぱいいっぱいなので自転車までは手がまわらない。

修理してもう1年、乗りこなそう。

go to top