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2014/09/14

ルスルス

ルスルスのお菓子

最近、お気に入りのルススルのクッキー。鳥の下から、鳥の♡。
ちょっとしたパフォーマンスのサプライズがある。
水色の色紙の天の川に白い星。とか。

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2013/09/16

第二の秋 シュルツ 勅使川原三郎

第二の秋/シュルツ  勅使川原三郎   Ⅰ

父によれば、これは気候のある種の中毒症状であって、その毒は私たちの美術館に所狭しと置かれている爛熟退化したバロック美術に発するのである。
長すぎる秋を苦しめる美しいマラリア熱、多彩な妄想の原因となる。美とは病なのだ____と父は教えた____美は秘密の感染による一種の震えであり、腐敗の暗い予兆である、(シュルツ「第二の秋」工藤幸雄訳)

シュルツの「第二の秋」は頽廃に充ち、さらにぎりぎりの絶望を孕んで、爛熟した果実のようだ。その「第二の秋」を勅使川原三郎が、舞台化した。「春」「ドド」を原作にしたシュルツ・前二作とは、少し演出を変えている。「第二の秋」に入って、かなりその外へ飛翔している。大劇場にふさわしい抜けるような秋の空気感が拡がる。

シアターχで踊ったシュルツ原作の「春」「ドド」を見たときに、思ったのだが、ある種のダンサーや演出家とか、舞台の上に乗る人たちは、小説を読むときに、人物に入り込んで、小説の風景の中を生きるようにして読むのではないかと。もちろん私たちも、主人公に気持ちを投影して読むというのはあるが、さらに主人公になって、小説の中であたりを見回したり、もしここで風が吹いてきたら、こんな風に感じたり動くだろうなというようなことまで分かってしまうような、読み方。

勅使川原三郎は、「春」を「春、一夜にして」「ドド」を「ドドと気違いたち」というタイトルに変えたが、一夜にして、気違いたちというところが、作品からでて作品の延長として、描いたところだと思う。両作品とも、短編が朗読され、その朗読を音楽として踊っていく。踊りと合わせて聞いていると、勅使川原三郎がどうシュルツを読んでいるのか、そしてどうそこから出てイマジネーションを拡げているのか、リアルに伝わってくる。
この2作品で勅使川原三郎の、これからの覚悟が伝わってくる。どう踊るのか、どうそこに居るのか/あるのかということをより優先使用としている。大きな劇場公演では、見せる要素、ドラマッティックに盛り上げる要素が、踊るということに付加される。勅使川原三郎は、視覚的演出にも特異な才能をもっている。(どこかで歪んだパースペクティブとか……)それを極力抑えて、踊るということに、晒しても踊るということに特化していたのが、シアターχでの2作だった。

一転して、東京芸術劇場での「第二の秋」は、作品から出て自由に踊る部分が多く、演出も従来のようなエッジのたった、光を駆使した演出も入った舞台だった。大劇場は、このままに世界に招聘される演出と躍りで続けていくのだろうが、おそらく、自ら作った劇場と小規模な劇場では、踊る身体を変容させながら変化を続けていく踊りを選んだのではないだろうか。

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2013/09/12

「こんなに愛しあったのに」 指輪ホテル

学生で言うと夏休みの期間中、指輪ホテルは、ずっと海で稽古をしながら作品を作り続けていた。切れ切れに伝わってくる稽古風景、それは鎌倉の海岸だったり……。夏の終わり、瀬戸内国際芸術祭の最後の三日に「こんなに愛しあったのに」が上演される。電車を乗り継いで、船に乗って、会場にたどり着いた。

ビーチに寝そべって英語の地理学の本を読む女、たき火をしてご飯を作る女…。始まる前から始まっている。試しに手を振ってみると、手を振り返してくれる。直島の宮ノ浦海水浴場、海の上に電話ボックスが浮かんでいる。その向こうに夕陽が沈んでいく。上演開始だ。颱風の雨が予想されている。大丈夫か。指輪ホテル。

電話がリーンと鳴り、一人の女が自転車で浜辺に乗りつける。横倒しに放置して、ブーツを投げ捨て、服のまま沖に泳ぎ出す羊屋白玉。電話ボックスに泳ぎ着いた女は、受話器を取る。
「え? どこから電話しているの…」
羊屋さんの電話は、冥界電話と思っている。パラボリカ・ビスの「断食芸人」でも、死んだはずの断食芸人と電話で話していた。時空をもつなぐ。死者とも話せる、どこにでもつながる。電話の相手は、生きているのか死んでいるのか分からない。だいたい羊屋さん自体が最後まで、生き死にが分からない。

登場人物は女だけ、乙女たちの夏休み。そんなイメージが浮かぶが、それは、始まる前の印象。本編は、かなり深みのある女たちの話。葬式を途中で抜けてきた女、結婚式を抜けてきた女、生まれたばかりの赤ちゃんなのに大きく育っている女、普通には他人から見えない女…。一人が死に/海に飛び込むと、誰かが産まれる……どういう構造になっているのだろう。

海の野外劇であり、島の演劇でありそして女たちの演劇、そして死者たちの演劇でもある。愛しあった人が、居なくなった時、それは恋人同士だったり、親子だったり…、残された女はどういう風に生きるのか。死者が生きているかのように共に生きるのか…。夏の間、浜辺で暮らした島の女たち、この島の女も、他から来た女も、みんな島の女として生きたこの夏。

死んだら甕に葬る、そうすると長い時間かかって水になるというような民族学的伝承譚が自在に組み込まれて、女たちの話は、哀しいけれど島の自然に戻っていくことで、大らかさをもっているような拡がりをもつ。
だけど島は闇を抱えている。直島には三菱マテリアルがあって、精錬で公害を垂れ流した。島は禿げ山になった。犬島も同じだ。植林しても木は大きく育たない。豊島には違法の産廃が残されている。燃やすのは直島だ。でも奇麗になったはずの黒い砂を誰も使わない。だから直島は黒い砂で埋もれていく。そんなことも密かに織り込まれている女たちの夏。

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2013/08/28

hippie coco『hippie coco’s planet』によるステルナちゃんコンテスト

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ステルナちゃんコンテスト

hippie coco『hippie coco’s planet』に収められているcocoさんのステルナちゃん型紙。
それを使ってコンテストにたくさんのぬいぐるみが応募されました。
素晴らしい!!!

すてられない服とか、生地とか。
素敵な、そしてユニークな作品ばかり。


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2013/08/27

お茶を売る人が参加できるお茶会は

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お茶を売る人が参加できるお茶会はないのかしら…。

えっ。そんな緊張して誰もお茶入れられないですよ。
でも、朝から入れ続けているとね。

毎日、お茶のことだけ考え続けて、朝一で飲んだお水の調子で、今日巧く入れられるお茶が何かと想ったりするような人に、入れられる人は、いないでしょう。いるとしたらパートナーかな。許せるし、分かってるし。

そんな話をしながら、入荷したばかりのお茶を、いただく。
私たちもまだ試飲していないからご相伴と。ご相伴はこちらです(^.^)
新入荷6種から香りで選んだら、みなタルボ農園だった。Black ThunderDJ-206 Clonal Wonder DJ-205 Shiny Dj-196。
どれも素敵だけど、一つ際立ったのが…。

そして9月7日のお茶会用に、Eden Vale農園 China Special Dj-1 をお迎え。 標高1500メートルにある美しい谷の、フルーティな茶葉。 農園の端をダージリン鉄道が走り抜ける…。

懐を開いてもてなす喫茶。試飲といえどもお客さんによってはとても疲れるとのこと。そんなことから人の話になり『境界性人格障害』の話をすると、岡田さんの本は読んでいるとのこと。時代の病なのかもしれない。


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2013/08/22

『地下室の手記』 イキウメ/カタルシツ

『地下室の手記』の手記


劇団イキウメは、本公演からはみだすような企画を「カタルシツ」という名称で上演しはじめた。やりたいことを実験的にやる。そんな静かな気合いが伝わってくる。

カタルシツは、「語る」と「室」をカタルシスに引っかけた造語だろう。
やろうとしていることは、朗読ということも関係しているのかもしれない。
パラボリカ・ビスで上演した、指輪ホテルの「断食芸人」(カフカ)の朗読も、不思議な形態をしていた。
朗読はまだまだ開発の余地がある。というか、朗読で実験をする、そんな気分なんだろうな。
シアターカイで勅使川原三郎が踊ったシュルツも、全面、朗読が流れている中だった。


++
さて「カタルシツ」の第一段は、ドストエフスキーの「地下室の手記」。
「地下室の手記」は、地下室に籠ってひたすら社会や友人、自分の周りのあらゆるものに恨み辛みを言い募る自己愛の男のモノローグである。ドストエフスキーが、「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」へ移行する端境期に書かれた、とてつもない暗さと呪詛のようなネガティブさに溢れた異色の作品と言われている。前川知大が現代に置き換えて上演した。
登場人物は、親の遺産で働かなくてすむようになった40歳男(安井順平)と、娼婦(   )の二人。

話すなら自分一人についてだけ、地下室のお前のみじめさについてだけにしてくれ。〈俺たち皆〉などと言ってもらいたくないね」

これは原作の部分。ニコ動の画面を流れるような、突っ込みを自分に入れている。どれだけ現代の、今の、日本的なんだろうか。
そう前川知大は、地下室からニコ動らしきサイトでいるかいないか分からない相手に向かって、語りかけるという設定
で、「地下室の手記」をはじめる。かなり置き換えをしているかのような印象を与えるが、実は、かなり原作にはかなり忠実だ。「地下室の手記」の二章がほぼ丸ごと使われている。一章は哲学的や思想的、自分の身上が書かれていて、それは上手に今に変えられている。

今の現実感から、場面ごとにぐいぐいと虚構世界に入っていくという、前川知大の真骨頂はここでも活きていて、いつのまにかドストエフスキーの世界に入り込まされているのだが、それとは気づかせない。凄いな。このテクニックは。

この違和感のなさは、どこからくるのだろう。
前川知大が以前に読んだとき、自分のことではないかと思ったと、書いているくらいだから、元々、自分のものになっているのだろうが、こういう自己愛の男、今ならどこにでもいるよな。自己愛の強い落ちこぼれ官吏は、おそらく何パーセントかは、帝政ロシアの時代と社会が生み出したのだろうから、それを思うと、今の日本は、あの時代と同じくらい人を暗くする、圧迫感があるのかもしれない。
それにしても、たくさんいるよな。こういう男。

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2012/09/14

嗤う伊右衛門 京極夏彦

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石野竜三さんの朗読が11月23日から26日までパラボリカ・ビスで行われるのだが

四谷怪談的なものをと選定中。
で、資料読みに耽る毎日。 おそらく『四谷雑談集』を読むことになるのだろうが
その経過で『嗤う伊右衛門』京極夏彦を読破。

現存作家を余り読まないので、京極夏彦もまったくの未読だった。
だった、が、読んで見て、素晴らしい!
『幻想文学講義』で読んだ、京極夏彦のインタビューが、かなり気にかかるものだったので、読んだしだい。

幻想を描くにあたって、現実から幻想の方へ上手にカットインする、あるいはすらりと入り込むというのが、通常の手法なのだが、京極夏彦は、現実の方で幻想を描いている。これは大変な力量で、伊右衛門も、岩も、梅もすべてこちらの側で、人間として蠢いている。ラストに現実が妖かしに侵犯されるのも鮮やか、そしてアディクションの様な、DVのような恋愛の機微を、描き込んでいて、そうだよな、ちょっとずれると運命はこうなっていくんだよな……という現代的な同感もある。歌舞伎の戸板もちゃんと使うし、原点もさらりと上手に挿入するし、ちょっと参ったなぁという、幻想小説だ。

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2012/09/03

幻想文学講義 東雅夫

幻想文学の定義は、意外にも……現実に/
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近いところに成立さえていた。シュールレアリスムではなく、シュルレアリスムという意味での現実に近いかもしれない。

『幻想文学講義』というだけあって、まさに700ページのインタビューは幻想文学そのものについて語っている。
雑誌『幻想文学』で言う幻想文学には、ホラーもSFも怪奇も含まれるので、広範囲の作家や評論家が幻想文学について語っている。幻想ではなく、幻想文学を語っている。まずその集成を読むだけでも価値がある。

そして書き言葉と語り言葉の中間辺りに、非常に読みやすい文体として起こされている声は、まさに幻想の語り口でもあり、読み物としての快楽がある。それにしても鬼籍に入られた方々の多いこと。ほんとうに幻想文学にとって惜しまれる方ばかりだ。


http://www.parabolica-bis.com/SHOP/books_024.html

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2012/09/01

カフカ式練習帳

残されたノートの記述を友人が編集して出版したというカフカの小説の出来が、現代人の創造力を掻き立てる。

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おもしろい断片を書きたかっただけだ。カフカがノートに書き遺した断片がおもしろくて、自分もそういうことがしたくなった。

(カフカはつながりのある小説をノートに綴っていた。日常から入って、しかもシチューションを説明することなく書く、スタイルだったので断片に見えるだけだ。あるいは、推敲前でつながりが分らず断片と見えるように残っている。)

(カフカの書き方と、近いわけではない。日常から入っていく感じは似ているが、カフカは、他者の引用はほとんどしない。保坂は引用を断片として差し込んでいく。しかし『カフカ式練習帳』に書かれている小説は…形式は、面白い。すらっと一冊、読み通せる。)



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2012/08/23

ちくさ正文館

今の文庫って…

8月23日

今日で、ちくさ正文館にかようのは3日目。ゲネプロの準備をしながら、古田さんと本の話をする。
毎日、毎日、本棚の脇を通って、2階の現場に向かう。
夜想が創刊したとき、営業して注文をとれば良いんだよと教わって、全国をまわった。名古屋はまずここちくさ正文館に来た。お茶を出してもらいながら、ベテラン書店員の古田さんにいろいろお説教かたがた教わった。1時間以上も話をされた。その時に出会った名物書店員さんで、現役なのは古田さんだけ。
そして今回、場所をかしてくれてトークショウもする。一日に、何度も本の売り場を抜けて外へ行くのだが、いつも古田さんは本を触っている。
文庫はねぇ、だいぶ変わったんだよ。全集から抜いたりするイージーなのもあれば、雑誌に掲載されていた元の形で、全集に出ていない形のを採録したりするのもある。この『久生十蘭短篇選』 川崎賢子編 岩波文庫 2009年は、出た年に文庫の売れ行き一位だったと思うよ。各社ともタイトルをそろえなくちゃいけないんで、大変なことになっている。でも面白いものも混じっているからね。これなんか『私は幽霊を見た 現代怪談実話傑作選』(東雅夫編/MF文庫ダ・ヴィンチ)凄いセレクションだよと古田さん。

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2012/06/04

平成中村座

染五郎が…。

猿之助さんは、自分で歩くと言いながら、仲見世の入り口までもたどり着けなかった。かつて自分の動きが鈍くなったらもう舞台に出ずに演出に廻る、それをちゃんと言ってくれる人を側に置きたいと宣言していたが、そうはならないのが歌舞伎で、あんな歳にまでなって女形をやるなんて、私は絶対に自分にそれを許さないと公言しながら、やはり歳をとっても舞台にあがるものだ。老いに至ったときの過ごし方は、それはそれで興味があって、妄執というのも良いし、あっさりと後進に譲るのも良い。猿之助さんは、襲名披露で舞台で演じたいという思いを強くしている。

澤瀉屋がお練りをしているその頃、浅草寺の脇を抜け、浅草神社を通って江戸通り、浅草六丁目、聖天様、山谷掘り…と歩けば、平成中村座に着く。ちょうど、出し物は、勘九郎と染五郎の「三社祭七百年記念・四変化・弥生の花浅草祭」。若手のスピードを十分に活かした振付は、さすが、藤間勘十郎。当代、すべてのジャンルの振付師の中でも僕の大好きな人。踊り手の身体の特質に合わせて振付けるのが好き。


染五郎の踊りをそんなに気にしていなかったけれど、ある時、ちょっとした踊りでふっといいなぁと心を惹かれる時があって、見るようになったが、それはいつも勘十郎の振付けだった。それから勘十郎振付けかどうか見るようになったが、染五郎との組み合わせは相性抜群のような気がする。勘九郎、染五郎、勘十郎振付けで、それを目的に昼の部に駆けつけた。期待通り。二人の息があったデュエットは、素晴らしかった。このスピードは今でしか実現できないだろうし、勘九郎の良さも十分に引き出していた。


平成中村座、今回は7ヶ月間、浅草で興業をした。病明けの中村勘三郎、終始真面目に舞台をつとめていて、それゆえにどこか本調子でないように思えた。しかし勘三郎ただでは起きない。座頭としての力量をいかんなく発揮して、自分の出番を控えめに、若手の育成や実験を繰り返していた。菊之助を立役として起用し、声を嗄らして熱演する真面目さに、カーテンコールで、良くやったと舞台上で褒める粋さはたまらない。いよぉ座長と声をかけたくなる。

菊五郎は劇団のヘッドとして素晴らしいが、勘三郎は、かつて浅草にあった江戸三座・中村座の座主、中村勘三郎の名を継ぐ役者だけあって、劇場主としての力量ももっている。菊五郎や猿之助が劇団制を活用しているのに比べ、勘三郎は劇団よりむしろ座の元に集まる個性の組み合わせに興味をもっているように思われる。菊五郎さんはむしろさっぱりとしている人で老醜とは縁ない。(今のところ…)先代松緑が、二月堂のお水取りに取材して舞台化した、『韃靼』も菊五郎さんの隠れ十八番だったのに、あっさりと松緑さんに譲ってしまって自分は出演もしない。千代の富士にすべてを譲った北の富士のようだ。共通は、粋な遊び人ということか…。

勘三郎さんが『め組の喧嘩』初役とは知らなかった。それにご祝儀を出したのか、團十郎さんの体調を気づかってのことなのか、今月は、関西で團菊祭が催されているのに、劇団の立廻りメンバーが「め組」に総出演してる。しかも菊十郎、橘太郎という劇団の看板立師二人が、腕をふるっている。「め組」をやるならうちのわけぇもんがいるだろう、もってきな……ということなんだろうか。真相は分からない。立廻りは勘三郎さんのところの立師に気を使ってか、今一つだったが、久しぶりに菊十郎さんの鰹売りを見れたし、橘太郎の絶品、白須賀六郎が見れたし、さすがに勘三郎さんの役者配置は素敵なものがある。

菊五郎さんは菊之助さんにおそらく立役を教えていないだろうから、それを経験させようとした勘三郎さんということもあるし、同じように勘三郎さんは新勘九郎に、自分を追ってこいとは言っていないような気がする。むしろ新しい勘九郎を作れと命じているようにも思う。この7ヶ月の勘九郎は、予想以上にしっかりと床を踏んで演技をしている。古風な歌舞伎の時代の錦絵に出てくるような、荒事が似合うような、そんな風をしている。菊五郎劇団で武者修行する勘九郎というのを見たい気もする。実現したらいいなぁと思いながら、僕の平成座は幕を閉じた。

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2012/05/29

魔法少女まどか☆マギカ KEY ANIMATION NOTE vol.4


魔法少女まどか☆マギカ KEY ANIMATION NOTE vol.4 がパラボリカ・ビスでお求めになれます。
プロダクションノートから全部、揃えることができます。
今なら…。

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http://www.parabolica-bis.com/


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2012/05/29

それでも、読書をやめない理由 デヴィッド・ユーリン

それでも、読書をやめない理由 デヴィッド・ユーリン

 iPadでは漫画までで、書籍は余り読む気がしない。それでも青空文庫をiPadで読むのは、少しの快感があって、たぶんそれは青空文庫には、電子書籍として読まれるという覚悟と、なぜ打ち込むのかという明確な理由があるからだろう。理由のあるものは、その美をもっている。電子書籍は、紙をただ移行したもので良いはずがなく、仮に移行だとしても、iPad用に、あるいはキンドルようにレイアウトされたものでないと、読みにくい。最底でもそれだけはして欲しい。しかし出版社の側からの理屈で言うと、それぞれにレイアウトをすると、コストがかかりすぎてとても出版コストに耐えきれない。とすると、自炊はするなと言いつつ、できるだけ自炊に近い形で、紙面を作るか、あるいは著者を含めた周辺の人に、コストを振り分けるかということになる。
 それでもiPadというメディアは魅力的で(もちろんキンドルにそれを感じる人もということも含めて)、日本でも電子書籍は生き延びるだろうとは、思う。しかし電子書籍がしょぼいと、紙の本もしょぼくしか売れなくなる。メディアというのはそいうものだ。共存は、相互がそれぞれに魅力的で競わないと難しい。本が生き延びるかどうかということを、そんな風にとらえていたのだが、この本を読んでがく然とした衝撃を受けた。
 本が読まれなくなる原因は、もっとネット脳的なことにあるのかもしれない。いや多分そうだろう。ネットに親しんだ日常を送っていると、注意力が散漫になって、読書という集中を要する作業ができなくなるという指摘だ。確かに相当思い当たる節があって、深さに至らない、そして深さを触ろうとすると、ネットで調べものをしたり、そこからまた面白いものに渡っていったりと、際限なく電子の表層を遊んでしまう。どうしよう。かなり真剣に本を読む環境、ネットを触る方法を変えないといけないように思う。

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2012/03/10

エコール・ド・シモン人形展@紀伊国屋画廊 3月8日

エコール・ド・シモン人形展@紀伊国屋画廊 3月8日

作りかけのような、朽ちているような…グリザイユの様な肌。
四谷シモンの新作人形は、ベルメールの初期のような風があり、アウシュビッツに収容されていた人形を今、リペアしながら創作したような未来感もある。人形のこれからを提案しているような作である。

グリザイユ好きにとっては、たまらない膚をしている。肌理にぐっと来るのは、以前からだが、グリザイユにこれほど反応する業は、どこから来ているのだろう。グリザイユはモノクロームで描かれた混合技法などの絵画の下絵で、少し色がついていることもある。青木画廊に出入りしていて、ウィーン幻想派に出会って、混合技法を知って、川口起美雄と鎌倉でセミナーをして、そのワークショップで、ファン・アイクのグリザイユに絵の何たるかを見たからかも知れない。

夜想創刊号には、川口起美雄のグリザイユ的絵画が描き下ろされている。お願いして描いてもらったものだ。夜想・鉱物特集の展覧会にもグリザイユで描いてもらった。建石修志にも少年と鉱物をモノクロームでとお願いした。ずっとそんなものに惹かれ続けている。肌の肌理ぐあいが、一瞬にして心を惹くポイントなのだろう。

作品ができ上がる途中で、創作の神のようなものが、降りてくる瞬間があって、そこを通過して作品は完成されるのだが、その降りてきた瞬間を見たいがため、それを凍結させたいという気持があるのかもしれない。ただシモンの作品がもっているグリザイユ的な要素は少し異っていて、降りてきていると言うより、自ら開いているという感覚がある。シモンゆえに、シモンの作品は自らが神ということもある。シモンにおける降臨する神は、自らなのだから、自らが意志をもつ、その反映が反映される瞬間ということなのだろう。

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2012/03/06

『誰も知らない貴方の部屋』@はこぶね 庭劇団ペニノ

『誰も知らない貴方の部屋』

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押し入れの中、拡がる妄想の部屋。
子供の頃、押し入れの中に寝るのが好きだった。天井の板がすぐ目の前にあり、眠りに落ちながら宇宙を翔ぶ自分を夢想した。タニノクロウの押し入れの妄想は、そこにまた小さな部屋を創造しそこから世界を覗くという二重の押し入れ部屋で展開する。
それにしても…とふと思う。子供の頃はあんなに狭い場所が好きだったのに、今は閉所恐怖症になっている。寺山修司の天井桟敷の完全暗転は大好きだけれど、係わっていたから構造を知っていたので辛うじて耐えられた。燐光群の「トーキョー裁判1999 ACT1〈解体〉ACT2〈航海〉」では、観客が船体の乗客として閉じこめられる設定にパニックに陥りそうだった。
タニノクロウの密室感は天井桟敷や燐光群の演劇独特の密室性、観客を追い込むような仕掛けと対極にあり、治療のために箱庭を眺めているような、ほんわかとした不気味さがあって、心がリラックスする。
庭劇団ペニノという名の通り、箱庭のような小さな舞台でタニノクロウ世界は、真骨頂を発揮する。『苛々する大人の絵本』の続編になっている『誰も知らない貴方の部屋』は、続編と言っても特に繋がりがあるわけでもなく、元自分が住んでいたマンションを改造して劇場にしているということと、その狭い空間がさらに上下に区切られていることと、シチュエーションや道具が似ているということで、きっとタニノクロウの妄想の一つが、あるいは見た夢が展開されているのだろうと思う。
上の階では、修道女のような服を着た、羊の精が「わたし、サボテン屋さんになろうかなぁ」ってぽそりと言う。…「ま、サボテン屋さんは難しいか…」などと独り言のような会話をしながら舞台は始まる。小さな窓の向こうには森が見えて雪が降っている。まさに箱庭…下の階(もしかしたら地下室?)にはオタクな兄弟が住んでいる。「兄さんの顔を作ったよ、誕生日に…」床には兄さん役の俳優そっくりの被り物がいくつも置いてある。そこに兄さんが入ってくる、部屋が狭くて弟とプロレスをするように絡み合う…そんな風に、摩訶不思議な世界が展開する。
演劇に社会批判性とか、前時代の演劇スタイルへのカウンターとかを含まなければならないという呪縛から完全に逸脱しているタニノクロウの妄想世界に孤立感はない。もしかしたら、無意識の深いところで共通にもっている物語の原型にたどりついているのかもしれない。そうだとしたらこれは平成のシュルレアリスムというような演劇なのかもしれない。

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2012/01/11

唐十郎からチェルフィッシュ

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唐十郎論 樋口良澄 唐十郎論―逆襲する言葉と肉体

著者から送られてきた『唐十郎論』を読みながら、
チェルフィッシュ的に言葉を位相させていく
としたら
どんなになるんだろうと

唐十郎の言葉は、今で言えばずいぶん
チェルフィッシュ的だ。
どんどんずれていく
本質からはずれるようにして。

そして最後にどかっと戻ってきたところが
ロマンの泉…

唐十郎と
宮沢賢治と中原中也の身体的言葉を
平行して読んでいる

唐十郎の引用した、中原中也は『骨』
ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破って、しらじらと雨に洗はれ、
ヌツクと出た、骨の尖。

石原裕次郎が歌っている。
http://www.youtube.com/watch?v=QrmLZC0_2Uc
石原裕次郎の歌の中じゃかなりのぶるいだ。

唐十郎とチェルフィッシュ
圧倒的な身体速度でずれていく言葉が意味を壊して
謎をまき散らす感覚は
似てないか?

身体の身振りの意味と言葉を意識的に離反させて
分からなさを作り出す感覚
似ていないか?

分らなさを適当にまき散らすというのは
アングラからチェルフィッシュ的現代にまで
共通していないか
それは
不思議なフックになって
魅力になって
客の心をとらえる。

そういう構造をもっているのが
唐十郎とチェルフィッシュを()にして
挟んだ中にある演劇がもっている
一つの特徴。

その謎を客も評論家も追いかける。
謎が美しければ、遠ければ
魅力も増す。

土方巽、寺山修司、唐十郎、野田秀樹。


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2011/11/30

『カストラチュラ』 鳩山郁子

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「ハオマー八番音読しなさい」
ハオマーは読み上げる。
「皇帝は幼い頃より宮中に深居し、それはいつしか独自の美的なるものの世界を形作り生涯それに耽溺する要因となったと思われる。」


さあてどこに行こうかと彷徨いぎみに夜の裏観音を歩いているとき、ふと、倉庫の奥に碍子を隠しているのを思い出した。電柱を立てて、電線を這わして…ショウ・ウインドウができるなら、耽美にまた溺れるのも良いかもしれない。
夜想は、ネオの時代のそのネオ具合に身体を任せて復活した。そして00年代が過ぎ次のディケイドに入ろうとしている。彷徨いはそのことと関係があるのかもしれない。
鳩山郁子が示しているのは、ネオにならないそのままでの未来。ゴシックがゴスになり、人形がドールになる、耽美がおたんびになる中で、耽美が今、生きるには、いや頽廃するにはどういう可能性があるのかという、そこを描いているのが美しい。
この未来派の耽美を享受できる人民とともに新人類を養成することが新たな使命なのか…もしれない。

展覧会のフライヤーにも引用した、
『けれどもその裏腹では身体と精神とをばらばらに遠避けているところで安住しているのだ。』
なぜ去勢歌手でありながらその原理を我がものとして入れることをしないのだろう。と、人工の不具者である者たちが相互に相手に原理を受け入れることを諭しながら、自らは不完全者として卑下する裏腹。人工の、究極の美でありながら、受容する器を持てぬ哀しさは、まさに我が身の頽廃にも近い。
いや我が身のというには、余りにいい加減に生きてきた。このものたちの頽廃にもっと身を持ち崩したい。頽廃が未来に生きないというのは余りに明らかなことではあるが、頭で読みきったふりをするのは反退廃的過ぎはしないかと、自省する。

その果てに膨らみつづけた去勢歌手の肉体が限界を超えたとき、解剖学の天使に誘われて、昇天する、少年の姿に戻る、卵形に膨張した纏足の去勢歌手よ。その一瞬に描かれた頽廃の未来。少年は虚空でブランコにのる、その天使になる。屍体は若かりし肉体の貌を取り戻す。この見果てぬ頽廃の甘美。なにものにも代えがたく、鳩山郁子が作り出した21世紀の耽美。

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2011/11/17

遅いっ!

夜想bis+ Amazonさん載せるの遅過ぎる。 しかもいきなり品切れ。 

Amazon上では夜想が新本を割引で供給します。

Amazonの品切れがとまるまでの緊急措置です。


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2011/11/01

開幕驚奇復讐譚 曲亭馬琴 

菊之助宙に舞う。

猿之助の十八番だった宙乗り。自分で宙に乗らなければ宙吊りになってしまうと、空中での演技を語っていた。国立劇場の『開幕驚奇復讐譚』で、菊之助は空中での演技を踏まえ、さらりと宙乗りをこなしていた。
そうか宙乗りはもう澤瀉だけのものではないんだな…。時代というのは恐ろしいものだ。芸を継承していないと嘆かれているが、どこかできちんと受け止められて進化している。停滞しているこの状況の中で、少しでも過去を踏まえてのびていくものを見るのは、ある種の救いにもなる。


国立劇場の復活芝居は、澤瀉の専売特許だった。そして一方、小芝居系の復活ものは、澤村宗十郎や加賀屋歌江が引き受けていた。興行しやすい演目を選んでいく松竹歌舞伎によってかえりみられない出し物が多くなっていくことに対して、国立劇場の歌舞伎は大きな役割を果たしてきた。成田屋の歌舞伎十八番にしても、『象引』をはじめとして二代目松緑が、国立劇場で復活させたからきちんと十八番揃っているということもある。宗十郎が亡くなって、猿之助の活動が停止して、復活もこれまでかなと思っていたら、菊五郎劇団が引き受けて継続している。


菊五郎劇団の復活で印象的なのは『小町村芝居正月』で、菊之助の狐が絶品だった。菊五郎劇団の成功は、古風な味を出しながら現代性も持つという、ところで菊之助がその古風さを担当しているのがここの面白いところだ。


『開幕驚奇復讐譚』での宙乗りは、両花道の上に、菊五郎、菊之助がそれぞれ宙に舞う『両宙乗り』という珍しいスタイルだった。レディ・ガガを若干こなしきれずに終わった、菊五郎の不完全燃焼が利いたのか、上花道の上の菊五郎は白犬にまたがってちょっと手持ちぶさたのように見えた。(実際は難しいし余裕はなかったかもしれないが…)両宙乗りは、両花道演技の延長だが、この部分はちょっとまだこなし切れていない感じだった。

もともと左右花道に役者が乗ったら、演技はそれぞれということになる。片方で演技していると
きは、片方がとまっているという歌舞伎独特の作法が、ここで生きてくる訳だが、それが見上げる中空の両花道になるとどっちを見て良いか分らなくなる。先に菊五郎にたっぷり演じさせ、その後、菊之助…かなとも思うが、それはおそらくベストの解決策ではないだろう。言えば味方同士というところも難しかったと想像する。

菊五郎劇団は立廻りの技術も要員もたくさん抱えているし、そのあたりをさらに生かすようなこうした復活ものは実に歓迎すべきところだ。世話物や團菊祭での力量発揮以上に、こうした古風さもあり、立廻りもあり、ケレンもあり、そして世話物的な庶民的な情もある、それがゆえに上演しにくくなった演目をもっともっと復活して、松竹はそれを本歌舞伎に取り入れて欲しいものだ。


蜷川幸雄の稽古場から (クルック)


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editors talk

2011/10/06

LIEN「Seabed tuberosa」

LIEN「Seabed tuberosa」はトラベラース・ノートとして使う機能をもっている。

LIENはヌイグルミを連れて、旅に出た。イタリアから仏蘭西へと。

アートブックの中には、旅の記録がつけられるトラベラース・ノーとが組み込まれている。

イタリアから一枚のカードがとどいた。

旅はまだまだ続く。



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